『妙法蓮華経』「如来寿量品第十六」(品末:偈・ガータ)
妙法蓮華経』「如来寿量品第十六」
(現代語訳)
わたしが無上の覚りを得て仏となってから
経てきた時の長さは
無量百千万億載阿僧祇劫という
とても数えきれない長い長い時。
わたしはつねに教えを説き
数えきれないほどの人びとを
教えて救い導いて仏へ至る道に導いてきた。
それより今まで無量劫という長い長い時がたっている。
苦しむ人をすべて救おうと
たくみな方便という手だてを用いて
ある時は私が涅槃という境地に入って、
私がこの身を滅して、
ふたたびこの世界に戻ってこないかのように
見せたりしてきた。
しかしほんとうはけっしてわたしは滅してはいない
いつもこの世に住んでいてこうして教えを説いている。
わたしはつねにここに住んでいるけれど
いろいろ不思議な力を使っては
心が迷って正しいものが見えなくなっている人たちに
こんなにそば近くにいるけれど姿が見えないようにする。
そういった人びとはわたしの身体が滅し姿が見えないので
いっしょうけんめいにわたしの遺骨を供養して
みんながわたしのことを恋いしたい
渇いた者が水を求めるように
わたしの教えを求める心をおこすであろうと。
そしてすべての人びとがわたしに信じ従って
まっすぐなおだやかな心になって
一心に仏にお会いしたいと
自らのいのちさえ惜しまず願うのなら
そのときわたしや法をひろめる僧は
そろってこの霊鷲山にあらわれる
わたしはそのとき人びとにこう必ず語る
わたしはつねにここにいてけっして滅することはない
人びとを導くためにたくみな手だてを用いているので
滅したように見せたり滅しないように見せたりしているのだ。
いずこかの国の人たちがわたしを敬いしたがって
教えを信じ心から聞きたい願っているものがいるなら
わたしはまたまたそこにもおもむいて
かれらのために最高の教えを説くのだ。
あなたたちは迷ってわたしの言葉を聞いていないので
ただわたしが滅したとばかり思っているのだ。
わたしはこの世界の多くの人びとを見ると
その苦しみの海に沈んで迷っている姿が見える。
だからわざとわたしは姿をあらわさず
みんなに心から会いたい気持ちをおこさせるのだ。
その心がほんとうにわたしを求める心になると
それにこたえてわたしはすがたをあらわして
みんなのために教えを説くのだ。
仏のそなえているまことの力とはこのようなものだ
阿僧祇劫というはるかに遠く数えきれないほどのあいだ
わたしはいつも霊鷲山やあらゆるところにいるのだから
たとえ人びとが
この世界に住むことができる時の終わりに至って
この世界が大火で焼きつくされるように見える時も
わたしが住んでいて教えを説いているこの国土は安らかで
それを祝福し護る天人で満ちているのだ
そこには美しい花園やきれいな木々の中に
お堂や楼閣がたちならび
さまざまな宝でまばゆく飾られ
宝のごとく輝く樹木や美しい花と
たわわに実る果実に満ちた世界
人びとはここで遊んだり楽しんだりしているのだ
さまざまな神々が美しい音色の鼓をうちならし
いつもいろいろな音楽をかなでて
きよらかで美しい曼陀羅華の白い花が雨のように
仏とその正しい教えにしたがった人びとに
降りそそいでいる。
このようにわたしが教え導く浄く美しい国は
けっしてこわれることはない
それなのに人はみんなこの国が
やがて大火によって焼きつくされてしまうもの
憂えや恐れやもろもろの苦悩が
こんなに充満している世界なのだと見ているのだ。
このようにあやまった見かたをしてしまう人びとは
そうしたあやまった見方や行いをつみかさねたので
阿僧祇劫というはるかに長い長い年月を過ぎても
仏・法・僧の三宝の名すら聞かずに生きてきたのである。
これにたいしてあらゆる善い行いを行いおさめて
功徳をつみかさねて
心は柔和ですなおな人は
みんなわたしがここに身をあらわして
教えを説いていることをはっきり見るのである
そういうわけで、あるときはこうした人びとに対しては
仏のいのちは限りないものと説くのである。
また長い長い時を経てようやく仏に会えた人に向かっては
仏に会うのはむずかしいことなのだよと説くのである。
わたしの智慧の力はこのようなもので
その智慧の光はあまねく照らし
仏の寿命は数えきれないほど限りがない
それは久しく善行いつみ重ね功徳をおさめて
達したものなのだ。
智慧・分別をそなえているものたちよ
このことをけっして疑ってはならない
そう、この疑いを完全に断じ尽くしていきなさい。
真実の極みに到達した仏の言葉は
真実でいつわりはないのである
たとえば、たくさんの子供たちの父である医者が
たくみに智慧を用い的確な方法として
父の言葉を疑うという猛毒におかされ
父の調合した薬を飲まずに狂ったように
苦しむわが子をすくうため
自分は生きているにもかかわらず死んだと伝え
父の教えを求めさせて薬を飲ませたからといって
この医者が子を偽る嘘を言ったことにはならないのと
同じである。
わたしもこの話の父のように、
いわばこの世の迷える人びとの父である
いろいろな多くの苦しみに悩む人たちの病を救う良医なのだ
凡夫はものごとを正しく見ないで迷ってさかさまに見るので
わたしは、本当は滅してはいないのに
滅したのだと言ったのだ。
いつでもわたしに会えていつでも救ってくれると思っていると
かえってわがままおごりがわきおこり
真面目さを失っていろいろな目先の欲望にとらわれて
その猛毒によって悪い教えにとらわれおちてしまうのである。
わたしはつねにすべての人びとが
わたしは人びとが仏の教えを行えているのか
いないのかをよく知り見きわめて
すべてを救うためにそれぞれにふさわしい的確な方法で
さまざまな教えを説きつづけているのである。
わたしはつねにこう思っているのだ
あろゆる方法を用いてでもすべての人びとが
この上なき覚りに至る仏道に入り
すみやかに仏の身への歩みが成就されるようにと。
『妙法蓮華経』「如来寿量品第十六」
(原漢文/原本:サンスクリット・パーリ/鳩摩羅什三蔵漢訳)
※第2水準、もしくはそれ以上の文字もありますので、環境によっては文字が正しく表示されない場合もあります。
自我得仏来 所経諸劫数 無量百千万 億載阿僧祇
常説法教化 無数億衆生 令入於仏道 爾来無量劫
為度衆生故 方便現涅槃 而実不滅度 常住此説法
我常住於此 以諸神通力 令顛倒衆生 雖近而不見
衆見我滅度 広供養舎利 咸皆懐恋慕 而生渇仰心
衆生既信伏 質直意柔軟 一心欲見仏 不自惜身命
時我及衆僧 倶出霊鷲山 我時語衆生 常在此不滅
以方便力故 現有滅不滅 余国有衆生 恭敬信楽者
我復於彼中 為説無上法 汝等不聞此 但謂我滅度
我見諸衆生 没在於苦海 故不為現身 令其生渇仰
因其心恋慕 乃出為説法 神通力如是 於阿僧祇劫
常在霊鷲山 及余諸住処 衆生見劫尽 大火所焼時
我此土安穏 天人常充満 園林諸堂閣 種種宝荘厳
宝樹多花果 衆生所遊楽 諸天撃天鼓 常作衆伎楽
雨曼陀羅華 散仏及大衆 我浄土不毀 而衆見焼尽
憂怖諸苦悩 如是悉充満 是諸罪衆生 以悪業因縁
過阿僧祇劫 不聞三宝名 諸有修功徳 柔和質直者
則皆見我身 在此而説法 或時為此衆 説仏寿無量
久乃見仏者 為説仏難値 我智力如是 慧光照無量
寿命無数劫 久修業所得 汝等有智者 勿於此生疑
当断令永尽 仏語実不虚 如医善方便 為治狂子故
実在而言死 無能説虚妄 我亦為世父 救諸苦患者
為凡夫顛倒 実在而言滅 以常見我故 而生※驕恣心
放逸著五欲 堕於悪道中 我常知衆生 行道不行道
随応所可度 為説種種法 毎自作是念 以何令衆生
得入無上道 速成就仏身
注)※印右の文字は「おごる」という意味の漢字を仮に表示させました。原字は第三水準なので同意の文字を仮に入れました。お経文の原字は、リッシンベンに橋の文字の右側のつくりになっています。