慎み敬って勧請し奉る本門壽量の御本尊、別しては、勅謚立正大師宗祖日蓮大聖人、門祖日什大正師等、来臨影嚮悉知照覧の御前に於て、謹で門祖開創以来の門流を解体し、日蓮門下合同の儀を言上し奉る。夫れ惟るに大海は衆流を収め、泰山は土壤を譲らず。開顕統一の経王何ぞ万教を摂せざらんや。然るに本化の門下各々法流を分つは、啻に経意に背くのみならず、宗祖に忠なる所以に非るなり。抑も我が門祖の教を弘むる、固より別派分立を意図するものに非ず。唯宗祖の正義を昂揚せんと欲するに在るのみ。顧みるに門祖曾て北嶺に在るや、壮歳夙に能化と為て経釈を講ずと雖も、胸中一箇の疑団あり遂に解く可からず。晩年故山に帰りて藩公の請に応じ、衆を集めて学を講ずるや、偶々一凾の秘書を感得して之を閲し、積年の疑冰釈然として茲に融解し、忽ちにして天台の昨暦と慈覚の邪義とを悟る。秘書は即ち宗祖の開目鈔及び如説修行鈔なり。時に年六十有七。是より弘通の雄志欝勃として止まず決然二三子を携えて故山を脱出す。その志正に壮なりと謂うべし。然も飜つて当時六祖の門流を観るに、各々嫡庶を争つて兄弟牆に閻ぎ、然も化儀行法に於て甚だ意に満たざるものあり。此に於てか敢えて六祖の門流に投ぜず、直ちに宗祖の法水を汲んで門下に列し、名を日什と改めて法華弘通の法幢を洛陽に進む。爾来法子教孫その躅を継承して門葉繁茂し、明治三十一年、顕本法華宗と公称す。然も固より別派分立の意なき、門祖既に会下に垂誡して曰く、「本経祖判に合する者あらば、その門流を問わず之に随身すべし」と。以って其意知るべきのみ。若し夫れ時至り、門祖弘教の素志に違わずんば、何ぞ必ずしも舊門流と合同するに吝かならんや。茲を以って明治三十五年、早く統合の議を唱え、更に大正初年、先師本多日生進んで門下教団統合の運動を起し、各流と倶に統一閣に於て之れが講習会を開く。日咸亦た之に関かる。然も時未だ到らざるか、遂に成らずして再び旧態に還る。惜むべしと言うべし。然るに今や聖代の昭運に方り、期せずして澎湃として合同の声起る。是れ門下諸教団衷心の声ならずんば非るなり。何ぞ区々の情実に泥んで此の好機を逸す可からんや。茲を以って我等は率先衆に諮り、欣然として日蓮宗と倶に合同に決す。是れ什尊弘教の真意にして、而してまた先師の本懐とする所なりと信ず。然も本門宗亦た合同に決し、倶に本日、祖山奉告の儀を整う。何の悦びか之に若かんや。聞く、爾余の諸門流亦た合同の意あり、唯之を実現するに時なき耳と。若し夫れ全門下合同し、挙宗一致、異体同心、以って広宣流布の大願に邁進せば、宗祖の法喜夫れ幾何ぞや。乃ち今、不肖日咸門流を代表し、恭しく仏祖の御宝前に合同の儀を報告し奉る。
仰ぎ願くは宗祖日蓮大聖人、門祖日什大正師、並びに歴代の諸先師等、我等が微衷を哀愍納受し給わんことを。
顕本法華宗管長 井村 日咸
新生日本ノ建設ヲ目指シツ々モ敗戰祖国ノ実情ハ極メテ深刻複雑ノ様相ヲ露呈シ、戦死戰災引揚犠牲者並ビニ寄ル邊ナキ孤児ハ寒風ノ巷ニアテモナク彷徨シツ々アル時、仏陀ノ福音、宗祖、開山ノ信念行ニ活キル私共教家ハ正ニ蹶起奉行シナケレバナラヌ時デアリマス。而ルニ、内徒ラニ小サナ感情ニトラハレテ立教ノ大義ヲ忘レ宗門ノ分立、什門ノ分裂ヲ策スルガ如キ蠢動ガマコトシヤカニ叫バレテ居ル事ハ実ニ悲シムベキ事デアリマス。スデニ去ル昭和十六年三月、三宗派ヲ解消シテ祖意ニ還元シ現『日蓮宗』ヲ樹立シタコトハ『大聖ノ化儀ニマカセテ弘通』セル門山什聖ノ御正意ヲ奉ジテソノ御遠忌ニ言上セル處デアリ、宗祖留魂ノ祖廟ニ直参シテ御契約シタ筈デアリマス。其處ニハ何等俗流ノ『外部的壓力』ニ屈服シタ譯デハナク純本復古日蓮ノ大義ニ據ツタモノデアリ、今更俗世ノ風潮ニ乘ジテ『分立』ヲ云々シ『単立』を宣言シ『当時ノ合同ハ外部的壓力ニヨル屈服』ト称スルガ如キハソレ自体宗教的良心ノ喪失ヲ告白スル悲鳴デアリ、恬然トシテ祖師ヲ欺キ奉ル『信仰的無節操』ニ外ナリマセン。勿論、『現実ノ宗門』ハ理想体デハナク、コレヲ『在ルベキ理想体』ニマデ引上ゲルコトガオ互ヒ宗門人ノ責務デアリマス。コノ責務ヲ忘レ『己レ一人清シ』ト速断盲信シテ宗祖留魂ノ祖廟ヲ捨テ祖意和合体ノ宗門的和合僧ヲ破り独善的分立ヲ専称スルガ如キハ、如何ニ宗祖竝ビニ開山ノ御悲歎ヲ招来スルカワカリマセン。又私共法流ノ情義トシテハ祖廟□□□宗門蓮正ニ精根ヲ傾倒シ遂ニ病床ニ呻吟シツ々淡々トシテ『往詣寂光裡』ノ澄キッタ心境ニ住セラレル井村前管長ノ晩節ヲ汚シテハナリマセン。シカモ『分立宗門』ノ『宗規草案大綱』ナルモノヲ見ル時『妙満寺貫首ノ任期ヲ終身トス』トアルハ、ソノ現実的事情ハ免モアレソレ事体スデニ『一夏一会打チカワリ』ト仰セラレタ開山正師ヘノ背叛デアリ、又寺院法タル『住職』ノ項ニ於テ『世襲制度』謳歌ノ如キ寺院私有化ノ法文的伏線ヲ見ルハ明ラカニ『大聖ノ化儀ニ任セテ』『経巻相承』ヲ絶叫サレタ開山精神ヘノ反逆デアリ、「宗門ノ公有」「弘教ノ拠点」タルベキ開山大寺ヲ永久ニ私有独占シテアタラ宗門有為ノ人材ヲ草澤ノ地ニ呻吟セシメトスル卑劣ナル野望ニ外ナラヌト思ヒマス。元来先師苦心ノ結実タル寺院ヲ俗世ノ時流ニ便乘シテ自己ノ所有ノ如ク盲断シ小異ノ我見ニ駆ラレテ自己一人ナライザ知ラズ『寺院グルミ』分立単立ヲ企画スルガ如キ暴挙ハ三省九思セラレネハナリマセン。オ互ニ小異ノ感情ヲ捨テ敗戰祖国ノ現状ヲ直視シ、祖意遵奉ノ大義ニ立脚『現実ノ宗門』ヲシテ『理想ノ宗門』ニマデ革清セズンバ止マズノ烈々タル宗門的熱意ニ協力精進スルコトコソ光輝アル什門法流ノ『正シキ在リ方』ト確信シ、イタズラニ『分立』ノ声喧ビスシク、イキホヒ『什門法類ノ四分五裂』ノ恐レアル現状ニ直面シテ護法ノ憂心座視スルニ忍ビズ、茲ニ心情ヲ披瀝シ『宗門分流反対』『内部的ニ理想宗門ノ実現』ニ向ッテ憂宗諸師ノ御協力ヲ伏シテ懇願スル次第デアリマス。
合 掌
昭和二十一年十二月十二日
松本日公 熊井本光 星野純義
長谷川義一 大森日栄 塚越通暁
筧義章 山下純秀 従野澄勇
和賀義見 山口智光 横山恵正
斉藤聖懐 田辺日慎
一、吾人ハ分離独立ヲ主張サレル一部緒師ノ熱意ニハ敬意ヲ表スルモノデアルコト。
二、然レドモ「宣言」ニ指摘セル如キ教団ノ危機ハ今日寧□教団ノ大同団結ヲ要求シツ々アリト思考サレルコト。
三、故ニ吾人ハ三宗派ヲ解消シ現宗門ヲ樹立セシ時祖霊ニ誓ヒシ事ヲ内省シテ教団革新ノ為梃身スベキト信ズルコト。
四、而シテ、什祖精神コソソノ基底ヲナスモノニシテ吾人ノ行動ハ断ジテ現状ヘノ妥協居座リニ非ズ破邪顕正ニ存スルコト。
五、本革新運動ヲ以テ徒労トナサレル向モ存スルヤニ予想サル々モコレニ対シテハ次ノ如キ諸点ヘノ明察ヲ切ニ乞ヒタキコト。
イ 宗教家ノ仕事ハソノ掲ゲル理想ガ高邁デアリ破邪ノ信念ガ純粋果敢デアル限リ、外部的成果ノ失敗自体ガ却ッテ高キ意義ト光ヲ持チ得ルモノデアリ、コノ点事業家ノ事業ト区別サルベキモノデアルコト。
ロ 旧日蓮宗内部ニモ宗門革新ノ要望ガ高マリツ々アリコレト相携ヘテ運動勢力ノ拡張ト目的ノ達成ヲ期図シウル客観状勢ノ存スルコト。
ハ 宗門革新ハソノ外部ニアッテ之ヲナスヨリモ、内部ニアッテ之ヲナスヲ強力、有効デアルト考ヘルコト。
六、シカルガ故ニ吾人ガ分離独立以前ニ採ルベキ手段、果スベキ義務ノ最善ヲ盡サザレバ独立ニ対スル正々堂々ノ大義名文ノ立タザルコト。
以上敢て自らの不徳を顧るの暇なく聊か卑見を開陳させて戴きました。願くは貴師憂宗護法の精神を以て我等が微力を扶け、この大義の旗の下「門流分裂」の危機を救ひ堂々の戰に参じ賜はんことを。
茲に敢て哀情を披して、伏して懇願申上げる次第でございます。
敬 具
(昭和二十二年)二月二十八日
日蓮宗革新同盟
什門流準備委員代表
草切 信栄
森川 泰修
岡松 乾丈
茲に恭しく末法救護の大曼荼羅勧請の諸尊、殊には宗祖日蓮大聖人、別しては門祖白蓮阿闍梨日興尊者等、證知照鑑の御前に於て、不肖日光、本門宗を代表し、慎んで日蓮宗と合同の儀を言上し奉る。夫れ惟るに宗祖の滅に臨み給うや、付法慇懃慈誡切々、特に命ずるに輪次守塔の大事を以ってす。茲を以って滅後、此の棲神の霊地に聖舎利を埋めて宝塔を建つるや、六祖及び十八子、月次を定めて厳に遺誡を守る。然るに余尊の地の遼遠にして法務に多端なる、時に支障なきに非ず。之に反し獨り我が興尊は、啻に地の近邇せるのみならず、その性の謹厳にして師命を重んずるの深き、自ら進んで聖務に服し、祖塔給仕の誠悃を抽んず。時偶々開基大檀越波木井公、輪次守塔の制を廃して常住守塔の山主を置かんことを提議す。蓋し其の意祖山の興隆発展を期するに在り。然るに興尊は宗祖臨滅の遺命を重じて敢えて之を許さず、乃ち茲に波木井公と意見の乖離を来たす。然も興尊の制法に厳なる、化儀行法に於ても亦た五一疎隔の事あり、快々として懌ばざるに至る。嗚呼、遺命に忠ならんと欲するも遂に祖山に留まる可からず。假令い波木井公の議を許すと雖も信節を屈するを奈何せん。此に於てか断乎衣を拂つて祖山を去る。興尊の胸中夫れ如何ぞや。爾後再び祖山の地を踏まず、専ら宗祖付属の旨を体し、本門事戒壇建立を期して力を富士の経営に注ぐ。然も守塔給仕の遺命を憶うことの切なる、寂を示してその御墓を営むや、命じて祖廟の地に面して之を建てしむ。蓋し寂後なお給仕の衷情を表せんが為なり。嗚呼我が興尊、祖山を離れて再び其の地を踏まずと雖も、其の心は常に祖廟を離れざるなり。爾来、古制を伝え、信節を守り、法燈相続茲に六百五十余年、今や聖代昭明の運に会して合同の譲頓に熟す。何ぞ區々の情実に拘わつて異体同心の祖訓に背かんや。
況や興尊畢生の志願、祖廟奉仕の一事に在るをや。今幸いにして機熟し時至る。何ぞ合同としも言わんや。我儕たゞ興尊の威霊を奉じて祖山に還り、その遺志を紹いで祖廟に奉仕するの一事あるのみ。興尊の威霊亦た我等が微衷を領納し給わん歟。乃ち日光等謹んで門祖興尊の深衷を量り奉り、更に国家世局の重大に鑑み、慎重熟慮、挙宗合議、去る二月十六日、宗祖降誕の聖辰を以って祖山還元の大事を決し、今茲に恭しく報告の儀を修し奉る。
仰ぎ願くは宗祖日蓮大聖人、門祖日興尊者、並びに興門歴代の諸先師等、衲等が微衷を領納し、照鑑加被を垂れ給わんことを。
本門宗管長 由比 日光
奉 告 文 - 日蓮宗管長 望月日謙
顧るに明治三十五年及び大正四年、御門下各流合同の議あり。機動くと雖も時未だ至らず、遂にその実現を見ずして今日に及ぶ。然るに今や国家未曾有の時艱に方り、勃然として御門下教団合同の議起る今正に是れ其の時なりと謂うべし。乃ち昨秋以来折衝数次、惜い哉議を盡すに時を籍さず、全御門下の合同を見るに至らずと雖も、茲に且らく、本宗及び顕本法華宗、本門宗の三宗派合同の実現を見るに至る。人法茲に融し、宛然として御在世を今に移すが如し。何の悦びか之に如かんや。爾余の御門下教団、亦た悉来つて倶に祖廟を拝するの日必ずや近きに在らん。蓋し亦た聖代の余慶なり。
乃ち今日謙、顕本法華宗管長井村日咸、本門宗管長由比日光と倶に、肝瞻を披瀝して仏祖の御宝前に拝跪し、慎んで三宗派合同の儀を言上し奉る。納等愈々仏祖の遺訓を体し、以って広宣流布の大願に邁進せんことを誓い奉る。仰ぎ願くは仏祖三宝先師先聖、冥鑑擁護を垂れ給わんことを。
昭和十六年四月三日
日蓮宗管長 望月 日謙
妻への遺言
岡田中将遺稿・関連文献/妻への遺言
(前略)そなたは先日の面会日には、三時間も当所に居て、面会時間外に少しでも私の近くに居る気分を味わって呉れたとの事、何と言う優しい気持ちでしょう。結構々々、私は誠に有り難い気持ちで一杯です。それに今日の知らせは無情であったね。でも単なる感情に負けないで私の以上書いた気持や、平素から書き送って居た事を、よく消化して、強く生きてくれよ。
国家民族が弱って居る時だ。根幹の人迄が参ってはならぬ。 御曼荼羅の前で何時でも私に会えます。此所で青年を教える事も中止だから、主力を以てそちを御見舞しましょう。
唯だ飽く迄も夫の心は仏の御受用だと信仰しなさい。そして其本仏も信仰の人には常に自身と一緒です。
御曼荼羅で思い出した。河合先生の山積した書類が花山師時代に当所に来て居たのを、今日田島師が始めて引出して下さった。当時故障があったのか、花山師が何かの理由で私に渡さなかったのか、河合先生には相済まぬ事をした。丁度、書を四冊差入れられた時の物だ(その四冊は五棟の青年に残してやったから、留守にはもどるまい)。
そなたも強健でなかったのだから、どうか私の強い業力を支柱にして丈夫になってくれ。私に代わり老母を見て頂かなくてはならず、若い夫妻の指導、就中孫嬢には絶対必要なそなたですから。
(温子さんへの遺言/220頁)
岡田中将の姿
法華宗系の教えの多くは、命が尽きた者が赴くところは今生きている世界を離れること十万億土と表現されるような西方浄土等を思念しない。この世界がそのまま浄土となるべき、またするべき世界・常寂光土であり、寿命が尽きて今生を終えた者は彼方に去らず、再びこの世に生をうけ、修行をつづける。すなわち、役者が一幕終わって少しの間、舞台のソデに隠れて居なくなったように見えるが、またすぐに舞台に立つようなもの、己のいのちは長い期間にわたって生死を繰り返し利他行を行う道を進んでいく菩薩の修行のあらわれのひとつと思念する。
各方面への伝言
岡田中将遺稿・関連文献/笹川氏宛絶筆
(前略)私は今生は終わっても、仏の御受用を信ずる限り、又々此の世に働き続けます。況んや数十万の青年に飛び込んだ私の業力は、活発に働いて居ります。私の宗教信念は大宇宙の平等観には立ちますが、諸法観に於ては、一応民族国家の国境は無視出来ません。
石原大兄にも宜しく御伝言下さい。宛名がわかりませんから。
くれぐれも御自愛御祈り申し上げます。(笹川氏宛絶筆/216頁)
本土爆撃に触れて
岡田中将遺稿・関連文献/戦略爆撃について
予は元来、米軍の戦略爆撃には決して不同意ではない。予をして米国航空総司令官たらしめば、矢張り日本本土爆撃を決行する。島から島えの飛び石伝いの正攻法なんか、余りにも幼稚である。然し、工業破壊の方法が悪かった。
人命を多く損せずして、目的を達する方法を考える事が、公法遵奉の精神ではないか。勿論空戦法規はそれでこそ改正を要し、確定を絶対とするのだ。今後の戦法は何か、現下の国際情勢は如何に動きつつありや。
若しそれ、国民戦意の喪失を目的とする内地爆撃であるならば、予は当法廷で論ずる事を好まぬ。
(482~483)
「秩父宮殿下への手紙」
岡田中将遺稿・関連文献/秩父宮殿下への手紙
御奉仕中は満足な御勤めも出来ず、御心配の種の山程御ありの両殿下に、私までがその御荷物の一つになっては勿体ない事であります。
私の心境を申し上げます事が出来るならば及ばずながら種々な事が御座います、でもその機でもありません。ここには単に事件に関係した私の気持ちだけを一寸記してみます。
旧東海軍事件の発端は、米軍の無差別爆撃にあります。これは明らかに現国際法規違反であります。我々は国際法の精神を破らずしてあの爆撃下の情況に即応する如く、私の方面軍司令官として権限内に於て法規を適用したのであります。
猛烈な無差別爆撃に苦しめられながら、私は武将として米軍があの大戦争に本土空襲を計画した事には賛成なのであります。その方法は後日、彼の爆撃調査団が自身で認めた如くに上出来ではなかったのですけれど。況や将来──将来といっても一日の先が保証出来ない程度の将来戦に於ては愈々以て空爆が戦争の勝敗を決する鍵となります。なかんづく原爆とか細菌戦とか大変な事が次から次へと控えております。至急に国際法規は空戦法規に大手入れしなければ駄目なのです。が風雲を獄中に静観すれば情勢は何も彼も一括して大風呂敷に背負わせたまま諸民族を修羅の世界に追い込んでいるではないでしょうか。
我々は幸いにして市ヶ谷でも横浜のどの法廷でも殆んど取りあげられなかった米軍の日本内地爆撃問題を徹底的に展開する事を許されたのです。この機会に吾人の犠牲に於て以上の問題解決の導火線を引き出し得たいなと願望したのですが、情勢変動の波は余りにも大きく国連は到底、今この問題を俎上に載せる力はないと思います。米軍としてもその切札である大空軍を西北に向かって整備する今日その線に沿うように兵器も操縦者の心構えも統一掌握しなければならんでしょう。小乗的の法にこだわる時機ではないかも知れません。
曾て人間は第一次世界大戦後国際連盟を作り、第二次を顧みて国際連合を作った。今日の戦犯の裁判という新事も人間のこの線に沿う一努力で一応は認めなければなりません。その適否は歴史が判決を下すでしょう。
裁判も各種条件から仲々公正な裁きはむずかしいです。でも、軍事裁判なら現在のような事に落ちつくのは矢張り当然でしょう。真正な裁きは神の法廷に出るときと、後年歴史家が筆で裁くときまで待たねば駄目と思います。
民族国家は大敗北を吃したのであります。ここ数十年大任を受けて国家指導を御手伝いしていた当局連中の大失敗である事は勿論肯定します。が大和民族が積極的に侵略に出たとか、戦争の原因は日本一国が背負うべし等と脱線して果ては日本と名のつくところ何物を残すべきものはない、一切御破算で思想まで全部輸入品に切り換えるかの如き戦後の脱線無気力ぶりにはつくづく情けなくなります。然し、我れ等に知らされる与論は極めて御相手方的なもののような気がします。或は一時的な反動も多分に見えます。更に食料不足から生ずる変態もあります。でも灰を掻き廻せば確かに火種はありましょう。また正しき民族の火を燃やし直すのです。絶対に徒らなる旧態への還元ではいけません。けれども敗戦後の文武官を問わず指導者階級の行動は真に不適当です。
国敗れて上将が求めて責任を取るのは当然過ぎる事ではありませんか。そして法廷では懺悔も躊躇もせぬ代わりに主張すべきは堂々と申し聞かなくてはなりません。
今日一般国民諸君に自我があるとかないとか批判する前に、市ヶ谷で民族意志を完全に披瀝したかどうか顧みるべきだと思います。
法律一点張りに指導したかの観ある米弁護士(A級戦犯の弁護人)の親切が或は仇になったかも知れないが、何故に東条の如く、他の一、二の先輩が勇敢に言論出来なかったかしらん。大川博士が精神異常さえなかったならばなあと、なお諦める事が出来ない気持です。
青年等が比較的率直に戦い得る私を、特別な道を高踏するかの如くにいいます時には「勝てば将官なんて大きな勲章を頂戴する、負けたら命も差し出すのは当然だ」と青年向きの議論を出して大笑いするのです。歯に衣着せぬこの粗野な譬喩にも一面の理はあるのであります。
(115~117頁)
「宗教と国境」
岡田中将遺稿・関連文献/宗教と国境
「宗教と国境、という問題はよく出る問題だ。その検討には、歴史の実際と宗教哲学の両面からしなければならぬと思う。T君、世界の宗教の歴史に、何れの宗教にか如何なる時代にか、徹底的に超国境のものを認めるかね。」「回教は如何、同じ宇宙の真理を説くものではあるが、広漠たる砂漠に育ち、相手の民衆は単純なものである。天候気象は随分極端である。昼は酷烈な太陽の炎熱に喘ぎ、夜は降る星空に万斛の凉味によみがえる。岩山も風化して砂漠となる。その砂は風に運ばれて千里に移動する。こんなところでは同じ真理の解き方も微熱的は許されん─アラーの神に祈りつつ他民族に向かっては、コーランか剣か─とくる。国境を越えて万人等しくかも知れんがおっとりした法悦どころか烈々たる強制力の下にである。」「基督教を見給え、そのユダヤ教時代は論ずるまでもなく一民族のための教である。基督の手により初めて国際教と変貌した、パウロによりアレキサンドリヤ教会においてギリシャ哲学を迎え基督一年有半の教化の跡は神学の系体を作り上げた。理想は人対神であろうが、間もなく強大となった。羅馬法皇庁の教権を何と見る、超国家問題どころか、人と神との交渉の中間にさえそれが介在したではないか、ルーターの改革後も法皇庁と断交しても新たに各国王の保護下に入った。そして矢張り人々は教会を無視することは出来なかった。
数回に互るあの十字軍は一体誰により編成せられ、何の目的で遠征の途に上ったのか。
第一次第二次の大戦に当り神の意思に反すとの理由を以って祖国を守る従軍をば拒絶した者のあるのは流石であるが、議会は、そして国民はこれに対して如何なる処置をとったか。公権の剥奪、中には極刑もあった筈だ。勿論信仰以外に不純便乗連中もあったかも知れん、その点は正確な批判材料を持たぬ、が祖国の危急に当っては、極左党労働運動でも国是に合流するあの雰囲気以外に出るものはあるまい。要するに各民族共に他民族を神に咒詛しながら祖国のために剣を採るのが歴史の実際であった。唯その事実を直視せよというのだ。
昔も今も平和運動は起るが遺憾ながら実行は収めていない、けれども益々猛烈切実にその運動は展開せられねばならぬと願望する」。(中略)
釈尊は一体国家をどう見ておられたか、国王の位を捨てて沙彌となったら無論国家否認論者だと、そう簡単には論断されぬ。一国王として政治を以て限りあるものを護るより世界の衆生を相手に一大救済を志して、出家せられたるに相異ないが、その事は直に以て国家否認にはならぬ。修行中王舎城の頻婆沙羅王の王位を譲らんとした時も「王よ、王は善政を布いて四民を安んぜよ」として位を譲る事を止められた。
お経の中には至るところ国王、王子等を尊重されている。法華経に、歴史に在る人間弟子中第一番に成仏を允可された舎利弗の授記の中にも華光仏(舎利弗の仏名)は寿十二小劫ならん、王子となりて未だ作仏せざる時を除くとわざわざ王子に生まれると予言してある。大無量寿経で阿彌陀の前身たる法蔵菩薩にしても、それが仮令実在でなく説話にしたところで「世自在王の時に国王あり、道心を発し国を棄て王を捐てて行じて沙門と作る、号して法蔵という」となっている。また涅槃経長寿品に「如来はいま無上正法を以て諸王、大臣、宰相、四衆に附属す。この諸の国王及び四部の衆は応に諸の学人等を勧励して戒定慧を増上する事を得せしむべし」とあって、一般に超国家を以て高しと思うは、仏陀の法を国王に附属せられし精神を閑却するものである。世法仏法の融合がねらいであったと思われる。扇の要として国、国王を重視されたものと判断する。
序に戦争観にも入って見たい。現像世界の万象は、己の保持と発展の深刻なる本能を持っている、然らば常にこれを裁くものがなければ必ずやその利害は衝突する、各自が大乗無我に立てばそれが理想だが仲々それは難中の難である。活きた歴史は如何、過去も戦争、大なり小なりいまもまた戦争し且つ戦争を準備する、神の如く中正にして絶対の力を有するものの裁きなき限り頗る危険だ。大に平和関係と平和の理念の進展に待たねばならん。それでこそ宗教の選抜とこれが宣布を希望するのである。(中略)
仏陀の戦争観は如何。涅槃経金剛身品に、例の覚徳比丘を掩護して悪比丘軍を撃破した有徳王の談がある。正法を護るためには、刀杖折伏止むなしの教だ。これは大に僧兵等の悪用したものである。但し真意は正法即ち真理擁護のためには、戦いも辞せずとの訓だ。 正法即ち真理を護らんためには、要すれば力を以ってせなければならんとは常識でもよくわかる、但しくれぐれも侵略邪狂に利用してはならん。
徒にに近来日本仏教が、あまりにも権勢に近づきすぎたとか、民族意議を少し昮揚しすぎたとかいう説もあるようだがこれも偏見だ。同じ仏教でも民族の特性に応ずる如く消化するのだから、原版と外観差異を生ずるは当然だ。
(133~139頁)
『妙法蓮華経』「如来寿量品第十六」(品末:偈・ガータ)
妙法蓮華経』「如来寿量品第十六」
(現代語訳)
わたしが無上の覚りを得て仏となってから
経てきた時の長さは
無量百千万億載阿僧祇劫という
とても数えきれない長い長い時。
わたしはつねに教えを説き
数えきれないほどの人びとを
教えて救い導いて仏へ至る道に導いてきた。
それより今まで無量劫という長い長い時がたっている。
苦しむ人をすべて救おうと
たくみな方便という手だてを用いて
ある時は私が涅槃という境地に入って、
私がこの身を滅して、
ふたたびこの世界に戻ってこないかのように
見せたりしてきた。
しかしほんとうはけっしてわたしは滅してはいない
いつもこの世に住んでいてこうして教えを説いている。
わたしはつねにここに住んでいるけれど
いろいろ不思議な力を使っては
心が迷って正しいものが見えなくなっている人たちに
こんなにそば近くにいるけれど姿が見えないようにする。
そういった人びとはわたしの身体が滅し姿が見えないので
いっしょうけんめいにわたしの遺骨を供養して
みんながわたしのことを恋いしたい
渇いた者が水を求めるように
わたしの教えを求める心をおこすであろうと。
そしてすべての人びとがわたしに信じ従って
まっすぐなおだやかな心になって
一心に仏にお会いしたいと
自らのいのちさえ惜しまず願うのなら
そのときわたしや法をひろめる僧は
そろってこの霊鷲山にあらわれる
わたしはそのとき人びとにこう必ず語る
わたしはつねにここにいてけっして滅することはない
人びとを導くためにたくみな手だてを用いているので
滅したように見せたり滅しないように見せたりしているのだ。
いずこかの国の人たちがわたしを敬いしたがって
教えを信じ心から聞きたい願っているものがいるなら
わたしはまたまたそこにもおもむいて
かれらのために最高の教えを説くのだ。
あなたたちは迷ってわたしの言葉を聞いていないので
ただわたしが滅したとばかり思っているのだ。
わたしはこの世界の多くの人びとを見ると
その苦しみの海に沈んで迷っている姿が見える。
だからわざとわたしは姿をあらわさず
みんなに心から会いたい気持ちをおこさせるのだ。
その心がほんとうにわたしを求める心になると
それにこたえてわたしはすがたをあらわして
みんなのために教えを説くのだ。
仏のそなえているまことの力とはこのようなものだ
阿僧祇劫というはるかに遠く数えきれないほどのあいだ
わたしはいつも霊鷲山やあらゆるところにいるのだから
たとえ人びとが
この世界に住むことができる時の終わりに至って
この世界が大火で焼きつくされるように見える時も
わたしが住んでいて教えを説いているこの国土は安らかで
それを祝福し護る天人で満ちているのだ
そこには美しい花園やきれいな木々の中に
お堂や楼閣がたちならび
さまざまな宝でまばゆく飾られ
宝のごとく輝く樹木や美しい花と
たわわに実る果実に満ちた世界
人びとはここで遊んだり楽しんだりしているのだ
さまざまな神々が美しい音色の鼓をうちならし
いつもいろいろな音楽をかなでて
きよらかで美しい曼陀羅華の白い花が雨のように
仏とその正しい教えにしたがった人びとに
降りそそいでいる。
このようにわたしが教え導く浄く美しい国は
けっしてこわれることはない
それなのに人はみんなこの国が
やがて大火によって焼きつくされてしまうもの
憂えや恐れやもろもろの苦悩が
こんなに充満している世界なのだと見ているのだ。
このようにあやまった見かたをしてしまう人びとは
そうしたあやまった見方や行いをつみかさねたので
阿僧祇劫というはるかに長い長い年月を過ぎても
仏・法・僧の三宝の名すら聞かずに生きてきたのである。
これにたいしてあらゆる善い行いを行いおさめて
功徳をつみかさねて
心は柔和ですなおな人は
みんなわたしがここに身をあらわして
教えを説いていることをはっきり見るのである
そういうわけで、あるときはこうした人びとに対しては
仏のいのちは限りないものと説くのである。
また長い長い時を経てようやく仏に会えた人に向かっては
仏に会うのはむずかしいことなのだよと説くのである。
わたしの智慧の力はこのようなもので
その智慧の光はあまねく照らし
仏の寿命は数えきれないほど限りがない
それは久しく善行いつみ重ね功徳をおさめて
達したものなのだ。
智慧・分別をそなえているものたちよ
このことをけっして疑ってはならない
そう、この疑いを完全に断じ尽くしていきなさい。
真実の極みに到達した仏の言葉は
真実でいつわりはないのである
たとえば、たくさんの子供たちの父である医者が
たくみに智慧を用い的確な方法として
父の言葉を疑うという猛毒におかされ
父の調合した薬を飲まずに狂ったように
苦しむわが子をすくうため
自分は生きているにもかかわらず死んだと伝え
父の教えを求めさせて薬を飲ませたからといって
この医者が子を偽る嘘を言ったことにはならないのと
同じである。
わたしもこの話の父のように、
いわばこの世の迷える人びとの父である
いろいろな多くの苦しみに悩む人たちの病を救う良医なのだ
凡夫はものごとを正しく見ないで迷ってさかさまに見るので
わたしは、本当は滅してはいないのに
滅したのだと言ったのだ。
いつでもわたしに会えていつでも救ってくれると思っていると
かえってわがままおごりがわきおこり
真面目さを失っていろいろな目先の欲望にとらわれて
その猛毒によって悪い教えにとらわれおちてしまうのである。
わたしはつねにすべての人びとが
わたしは人びとが仏の教えを行えているのか
いないのかをよく知り見きわめて
すべてを救うためにそれぞれにふさわしい的確な方法で
さまざまな教えを説きつづけているのである。
わたしはつねにこう思っているのだ
あろゆる方法を用いてでもすべての人びとが
この上なき覚りに至る仏道に入り
すみやかに仏の身への歩みが成就されるようにと。
『妙法蓮華経』「如来寿量品第十六」
(原漢文/原本:サンスクリット・パーリ/鳩摩羅什三蔵漢訳)
※第2水準、もしくはそれ以上の文字もありますので、環境によっては文字が正しく表示されない場合もあります。
自我得仏来 所経諸劫数 無量百千万 億載阿僧祇
常説法教化 無数億衆生 令入於仏道 爾来無量劫
為度衆生故 方便現涅槃 而実不滅度 常住此説法
我常住於此 以諸神通力 令顛倒衆生 雖近而不見
衆見我滅度 広供養舎利 咸皆懐恋慕 而生渇仰心
衆生既信伏 質直意柔軟 一心欲見仏 不自惜身命
時我及衆僧 倶出霊鷲山 我時語衆生 常在此不滅
以方便力故 現有滅不滅 余国有衆生 恭敬信楽者
我復於彼中 為説無上法 汝等不聞此 但謂我滅度
我見諸衆生 没在於苦海 故不為現身 令其生渇仰
因其心恋慕 乃出為説法 神通力如是 於阿僧祇劫
常在霊鷲山 及余諸住処 衆生見劫尽 大火所焼時
我此土安穏 天人常充満 園林諸堂閣 種種宝荘厳
宝樹多花果 衆生所遊楽 諸天撃天鼓 常作衆伎楽
雨曼陀羅華 散仏及大衆 我浄土不毀 而衆見焼尽
憂怖諸苦悩 如是悉充満 是諸罪衆生 以悪業因縁
過阿僧祇劫 不聞三宝名 諸有修功徳 柔和質直者
則皆見我身 在此而説法 或時為此衆 説仏寿無量
久乃見仏者 為説仏難値 我智力如是 慧光照無量
寿命無数劫 久修業所得 汝等有智者 勿於此生疑
当断令永尽 仏語実不虚 如医善方便 為治狂子故
実在而言死 無能説虚妄 我亦為世父 救諸苦患者
為凡夫顛倒 実在而言滅 以常見我故 而生※驕恣心
放逸著五欲 堕於悪道中 我常知衆生 行道不行道
随応所可度 為説種種法 毎自作是念 以何令衆生
得入無上道 速成就仏身
注)※印右の文字は「おごる」という意味の漢字を仮に表示させました。原字は第三水準なので同意の文字を仮に入れました。お経文の原字は、リッシンベンに橋の文字の右側のつくりになっています。
【坐禅唱題の記述】
岡田中将遺稿・関連文献/坐禅唱題の記述
何事をするにも精神統一は先決問題である。
そのために坐禅、狭い牢内で健康を保つのも坐禅、唱題の基本姿勢は坐禅、真理を究明するにも坐禅、見聞せる教を我が身に消化せんとすれば坐禅だ。聖一国師の言も借りて見る。「諸法は皆、此門より流出し万行も亦此道より通達し、智慧神通の妙用も此中より生じ性命も此中より開けたり。諸仏己に此門に安住し、菩薩も亦行じて此道に入る。乃至小乗及外道も行ずと雖も未だ正確にならはず。凡そ顕密の諸宗も此道を得て自証とす」と大いに坐禅を礼讃してある。
(33頁)
「世の中にハング村以上に悪い世界はないと思うたらその下があった、当棟の者は絶対入院無用」ときた。薬も病の状況に合うようなものは仲々与えられない。そのまま移行すれば間もなく牢死あるのみだと自他共に感ぜざるを得ぬ事になった。
よしっ、友情一本で彼を救うて見せる。禅観と私の下手ながらの指圧に頼るつもりになったのである。
早々C中尉に願うて許可書を得た。第一日来室した彼は殆んど坐する事が出来ん亡者の如く毛布を肩にかけて壁に寄り掛かったまま十五分も坐禅をつき合うたけれども苦しかったらしい。私は側で坐禅唱題しつつ彼のために熱祷を捧げた。
(90頁)
同室者楢崎正彦氏の回想
関連文献/『久遠』所収・同室者楢崎正彦氏の回想/岡田中将最期のすがた
閣下はその夜に限り暫く床の上で坐禅をされた。いつもは唱題を二、三回やってながくなられるのだが、唱題の後三、四分坐禅である。そして漸く床にながくなられたと同時に、玄関が騒がしくなった。
足音は数人こちらの方へ近づいたと思うと、枕許で「岡田」といふ首吊りの声であった。ひょっと瞳をあげると、ガチャガチャと錠が外され、数名の兵隊が立っている。
ああ兪々来た─岡田さんを見ると、身動きもされず横のまま、今一度オカダの声がかかったので、僕は思わず跳起きて「岡田さん」と最後の叫びをかけた。
すると下から鋭い眼をぎょっと据えて看守らを見上げておられた。
そして「よしきたっ」と声と同時にフトンを蹴って起きられた。
─wait moment─、暫く待て─とはっきり、然もゆっくりと言われて服をつけられた。
僕は余りの突然に物も言えずただ合掌した。すると閣下は口をすすがれ、再び顔をふかれた右手首にいつもの数珠をかけられて
「なすことはなし終わった。君らは心配するな。最後まで正法を護念せよ」
と言って、かるく頭を撫でて下さった。下駄をとって出ようとされた時、下士官がフトン全部、本も持てと言った。
再び毛布をひろげ、僕のかるい布団と一枚をかえて包み、廊下へ送り出した。思わず自分は「南無妙法蓮華経」と声が咽喉をついて出た。
するとあちらこちらの部屋から一度に大きな唱題の声がわきおこった。その時ここのアダムという大尉が来ていて、彼は終始不動の姿勢で見守っていた。
矢張り将官というものに対する敬意をもっていたのである。
目の前で手錠をうけられ、一番端の部屋より挨拶をされて廊下をいかれた。
そして階段をおりつつ、閣下の大きなあの美しい唱題が廊下一杯に響き渡り、大扉のしまる迄相呼応して唱題の声がつづいた。 (『久遠』225~226頁)
『日蓮宗事典』815頁3段所載(【統一団】(とういつだん)/項目引用)
明治二三年(一八九〇)六月時勢の要望により、仏教各宗協会ができ、各宗綱要が編纂されることになった。当時、妙満寺派から僧籍を剥奪されていた本多日生が、同二八年四月宗門に復帰し、難航中の妙満寺派としての「宗義綱要」の執筆に当ることとなった。提出した原稿一一件の中から四箇格言、謗法厳誡の二件を協会側は除去すると決定して来た。そこで、これは協会の綱要編纂規約に違反するものとして質問書を提出したが、その抗議は容れられず、交渉は決裂した。あくまでその理非を正して日蓮聖人の本懐たる仏教統一の大願を果すため、協会長・大谷光尊、各宗綱要編集長・島地黙雷を被告として裁判に訴えた。第一審で却下、更に控訴したが遂に「司法裁判ノ管轄ニアラズ」として棄却になったが、このことは世間の宗教に対する関心を深めた。本多日生は格言問題は全日蓮門下の大問題であるとして、門下各派に呼びかけ、東京を始め全国各地に大演説会を開いて門下の結束を促した。その結果、明治二九年一二月、東京で統一団団結宣言大会を開き統一団を設立した。妙宗各派の道念堅固な僧俗で組織し、内各派の教義を比較的に講究し、その旨帰を統一することに努め、外権実起尽の旨義を発揮し各派の団結力をもって権門の淫祠邪教徒を追放することを目的とした。事務所は浅草新福井町顕本法華弘通所に置かれ、月二回『統一団報』が発行された。更に品川妙国寺に移り、「統一」と改名、月一回の発行となり、戦後まで続けられた。本多日生は折伏教化のため全国にわたって布教に寧日無かったが、中心はあくまでも帝都の弘通においた。明治三八年五月に顕本法華宗の管長となり、宗風の刷新顕揚に努め、明治四五年四月に中央の布教道場として統一閣を建設した。盛泰寺、安盛寺、常林寺の三ヵ寺を合併、更に有志の浄財を集めて落成したもので、当時としては新しい型式で、しかも宗教的な講演会場であった。東京下町の中心地、上野と浅草の中間に位置し、電車道に面する地の利を得て、毎日曜の講演会にはいつも満場の聴衆を集めた。この日蓮主義勃興の道場は、惜しくも大正の大震災で焼失、いち早く復興して震災後の人心復興に役立った。昭和二〇年(一九四五)の戦災には焼失を免れ、終戦後は日蓮宗宗務院として転用された。本多日生は管長退任後昭和四年同師会を結成し、山口智光、田中道爾ら僧俗一〇名を集め教学の練磨を計った。更に統一団の法人化を目指して統一団協賛会(理事長宮原六郎)の設立を計画したが成就しないうちに昭和六年三月一六日迂化した。その後上田辰卯の尽力により、昭和八年一月一三日統一団は財団法人の認可を得た。同二月一一日小石川音羽に統一会館を建設開館した。磯部満事が主事として事務を担当し、教化活動を続けてきたが戦災で焼失した。上田理事長の歿後、同師会の和賀義見が理事長となり滝野川の本仏教会に事務所を移し、教化に努め宣伝教誌『統一』を復刊、更に本多日生の遺著復刊等の事業が継続されている。