和暦
西暦
出  来  事
慶応3年
1867年
3月13日、播州姫路藩士国友堅次郎氏次男として出生す。
母は勝子夫人、長二と命名。幼少より仏縁あつく、姫路市妙善寺本多日境師に奉侍、姓を本多と改む。
明治12年
1879年
8月姫路市妙立寺池田日昌師に就て得度し、聖応と号す。
池田師遷化のため、児玉日容師に附弟し、漢学を西毅一氏に学ぶ。
明治17年
1884年
9月堺市妙満寺住職となる。
明治20年
1887年
9月東洋大学の前身哲学館第一期生として学ぶ。
明治22年
1889年
1月宗制原案起草委員を命ぜらる。
3月姫路市妙善寺住職となる。
4月公会議員に当選す。
7月東京浅草盛泰寺(後の統一閣)に転住す。
9月浅草円常寺に転住す。
明治23年
1890年
8月宗門要書取調委員長に任命さる。
教務部長に任命さる。宗門改革運動を起す。
明治24年
1891年
4月浅草慶印寺住職兼任す。
5月教務部長を免ぜらる。
7月慶印寺兼務解任。
明治25年
1892年
1月突如剥牒処分に附せらる。
12月浅草新福井町に顕本法華第一宗義布教所を設置す。
明治26年
1893年
2月岡山市に第二布教所を新設す。
11月津山市に第三布教所を開設す。
明治27年
1894年
10月神戸市に第三布教所を開設す。
明治28年
1895年
4月宗門に復籍す。
10月本宗宗義綱要の編集を委嘱さる(四箇格言問題起る)。
12月大学林長に任命さる。
明治29年
1896年
4月監督布教師を命ぜらる。
10月財務部長を命ぜらる。
12月教化を目的とする統一団を組織す。法務部長に転ず。
明治30年
1897年
1月『統一団報』を創刊。
5月品川妙国寺に住職し、誌名を『統一』と改名。毎月発行す。
明治31年
1898年
7月宗務総監となり法務部長を兼任す。
11月日蓮宗妙満寺派を改め顕本法華宗と公称認可す。
明治33年
1900年
3月内務省より管長事務取扱を命ぜらる。
明治34年
1901年
7月『統一』『妙宗』『日宗新報』の三誌同盟成立。
9月本多日生・田中智学・加藤文雅は本化宗友会結成す。
明治38年
1905年
5月挙宗一致管長に当選、以来27年間勤続、宗風大に改まる。
明治39年
1906年
2月東洋大学評議員に就任。
明治42年
1909年
1月日蓮主義の研鑚を目的とする天晴会、婦人教化を目的とする妙経婦人会を組織す。
明治43年
1910年
経典鑚仰者のために講妙会を設く。
明治44年
1911年
6月婦人のため地明会を起す。
明治45年
1912年
4月浅草に布教道場として統一閣落慶す。
大正4年
1915年
6月日蓮門下六宗団の統合成立。
大正6年
1917年
3月仏教界未曽有の快著大蔵経要義第一巻出版。
大正7年
1918年
3月労働者善導を目的とする自慶会を組織し、また先に教化団体連合会の創立に参加し幹部として貢献大なり。
大正10年
1921年
11月東洋大学顧問に就任。
大正11年
1922年
10月日蓮聖人立正大師号謚号宣下実現に尽す。
大正13年
1924年
この年設立された教化団体連合会(のち中央教化団体連合会)の幹部として、社会教化活動に尽力。
大正15年
1926年
5月九期の管長を辞任す。
昭和2年
1927年
東洋大学の昇格部顧問に就任。
昭和3年
1928年
7月思想善導の目的を以て知法思国会を創設す。
昭和4年
1929年
3月直弟の僧俗十名を集め同師会を結成す。
昭和5年
1930年
10月統一団協賛会の計画に着手。
昭和6年
1931年
1月五日、音羽所在の土地・建物を基に統一団協賛会を開催し役員、会則を定む。
3月16日、本多日生上人遷化、世寿満六十四歳。
昭和7年
1932年
6月23日、財団法人統一団設立を文部省に認可さる。初代理事長上田辰卯。
昭和8年
1933年
2月11日、財団法人統一団の会館が音羽に落成す。
昭和19年
1944年
1月31日、理事長に和賀義見就任。
昭和20年
1945年
3月東京大空襲にて会館焼失、財団活動を維持するため本部を和賀義見自坊に移す。
昭和54年
1979年
6月30日、理事長に山口智光就任。
平成4年
1992年
2月13日、理事長に池田新一就任。
6月26日、理事長に和賀正道就任。
10月1日、音羽に会館(TIDビル)を再建、落成す。