◆ 『統 一』 誌 の 淵 源
『統一』誌の淵源は、明治29年2月、河野日台上人を会長、本多日生上人を幹事として浅草の慶印寺で結成された宗義考究会の機関誌として毎月2回発行された『宗義考究会誌』に始まります。この機関誌は同年に実現した顕本法華宗の河野・本多らの宗門改革中の布教・興学の充実に応じて発行されたものですが、改革の急に宗内から反発が起こり、内局が崩壊、河野・本多らの改革派は左遷されたため、発行は明治23年2月から同年11月15日号までの14号のみですが、時代に即応した布教と教学考究を目指した本格的な論考が行われた最古の教誌といえましょう。『統一』誌はこうした情勢を背景に、明治29年に、時局の要請により仏教各宗派の特徴ある教義をそれぞれの宗派で執筆して掲載することを目的とする『仏教各宗綱要』の本多上人の執筆原稿中から「四箇格言」等4章を編集部が無断で削除の上発行したことに対して日蓮門下がこぞって抗議の声をそろえたのを機に、門下の意志を統合し、かかる現代布教の種々の問題に対して論究する、派閥・僧俗を越えた団体として「統一団」が組織され、その機関誌として『団報』として発行されたのがその始まりです。
当時の本多上人の浅草統一閣の講演には毎回老若男女千人を越える聴衆がつめかける活況で、毎月発行される『統一』誌は当時の大衆娯楽雑誌『キング』を凌ぐ勢いでした。内容は本多上人の講演の筆記録を軸に当時の有識者が時代の問題に即して日蓮教学や様々な角度から論考を寄せる一方、小説や俳歌壇など一般にも親しめる内容も盛り込まれています。
やがて、当財団の公益法人認可直前の昭和6年3月に本多上人は遷化、宗派側から今後は統一団を宗派僧員中心に進めるとの提案をめぐって顕本法華宗と断絶、8月26日には顕本法華宗宗務庁は「宗内寺院へ無代発送の統一誌は一時中止相成度候」との通達を出し、『統一』の発行部数は激減します。宗務庁は新たに財団法人「立正統一団」を設立、『統一主義』を発刊し、ここに勢力は完全に2分され、本多上人の組織してきた日蓮主義運動の母胎は解体していくことになります。『統一』の刊行は、音羽の会館で財団活動を続けた磯部満事氏を中心に引き継がれますが、昭和20年の空襲ですべてを失い、休刊に至ります。やがて第2代理事長・和賀義見師のもと、和賀正道(現・5代理事長)が発願して旧『統一』の購読者名簿をもって小西上人が発行していた『洗心』の購読者名簿をもって本多上人の業績顕彰のため身延山に本多上人の銅像建立の勧募を行い、その際の寄付者に呼びかけ購読・賛助を求めて昭和48年に独力で『統一』誌を復刊し、隔月の刊行を開始しました。やがて平成2年、再刊101号より財団内に編集部を創設し誌面を現行の体裁に改め、季刊年4回発行に切替て第3種郵便物認可を復し、現在通刊745号、再刊150号を刊行、100余年の伝統のもと、一般にも親しめる内容を盛り込んで発行が続けられています。

『統一』誌の表紙の変遷
明治・大正・昭和の100年に発行されてきた『統一』誌の表紙は各時代の空気を反映して変化してきました。ここではその中から戦前に発行されたものの中から8例を紹介しましょう。

明治35年9月

明治35年11月

明治45年3月

大正4年12月

大正5年1月

大正6年1月

大正12年11月

昭和19年8月