◆ 『統 一』 誌 の 淵 源
本誌は表紙などにもうたっているように、創刊は明治31年の伝統ある仏教雑誌として、本多日生上人はじめ当時の弟子・信徒によって刊行が続けられて参りました。当時の本多上人の浅草統一閣の講演には毎回老若男女千人を越える聴衆がつめかける活況で、毎月発行される『統一』誌は当時の大衆娯楽雑誌『キング』を凌ぐ勢いでした。内容は本多上人の講演の速記録を軸に当時の有識者が時代の問題に即して日蓮教学や様々な角度から論考を寄せる一方、小説や俳歌壇など一般にも親しめる内容も盛り込まれていました。誌面はそうした統一閣での講演や法話の熱気に満ちた魅力有る内容でした。
しかし、大正15年、本多日生上人は門下の真の統合の実体化を望みつつ、九期にわたる管長職を辞し、以来、浅草統一閣は次代の顕本法華宗の弟子・僧侶の活躍の舞台になります。こうした流れの中で、本多上人のかつての講演や活動を希う方達が、本多上人が体調を崩しがちになった昭和4年以来、本多上人が自ら次代に統一団活動をつなげるため、統一団の財団法人化を目指し、昭和五年十月に統一団協賛会の設立に着手すると、この計画に賛同する僧俗、殊に当時、妹尾義郎氏の主宰する若人社の幹事であり、中村精兵衛・清一父子と並ぶ本多上人の熱心な外護者であり、経済界で実績をあげていた上田辰卯氏の全面的な経済支援によって一気に設立の道が開けました。「財団法人統一団」(当時財団は全て公益目的)、所管は文部省。設立認可は昭和7年6月、これが現・財団になります。
上田氏はまず、妹尾義郎氏の主宰する『若人』社(今の文京区護国寺)近くの文京区音羽6丁目(今の1丁目・当時の音羽通りは天皇家の墓苑が護国寺にあったため、他の地域と異なり、護国寺側から1丁目…と町名が付けられていた)に、約60坪の土地に地上2階建て木筋コンクリート造りの会館を建立・寄進し、昭和6年1月に音羽所在の土地・建物を基に統一団協賛会を開催し役員、会則を定め、財団法人認可を申請しました。これが、今の一般財団法人本多日生記念財団(現在正式移行途上の移行法人)になります。この建物では本多上人が定めた信仰堅固な僧侶と信徒を同数ずつ計十名―本多上人を入れて―からなる同師会員はじめ信徒の講演や寒行など、活動を開始しました。
ところが、認可目前の昭和6年3月16日、本多上人は遷化されましたので、初代理事長は上田辰卯氏が就任、それと本多上人の側にいつも添い、活動を支えてきた磯部満事氏、また報恩閣の小西上人が編集者として『統一』誌の刊行を続けました。(この会館落成記念の『統一』誌は昭和8年3月1日号)
開館記念号には、毎週木曜日の小林一郎先生の法華講座や毎日曜日の日曜講演会の広告が掲載されています。開館記念式は紀元節(今の建国記念日)、本多上人遷化2年後の2月11日でした。
こうして、本多上人の遷化など大きな苦難を超えて、明治31年創刊以来の『統一』の発行が続けられましたが、昭和16年に太平洋戦争が始まり、昭和19年に初代理事長の上田氏が退任、物資の少ない中、頁を減らし、部数も減らして発行を続けました。
昭和19年1月に上田氏から同師会員の和賀義見が第二代理事長に就任しますが、ほどなく、昭和20年5月の空襲で、音羽の建物・資料すべてを失い、磯部氏も横浜から通うことが出来なくなり『統一』誌は廃刊となりました。
そんな中、第二代理事長の和賀義見は消えかかった財団の法灯を維持するため、本部を自坊に移し、財団を最低限の活動をもって、維持しますが、『統一』誌の発行再開の目処はたたないまま、戦後二十年以上の月日が流れました。
やがて、義見の第二子の和賀正道が発願して、当時、旧『統一』の購読者名簿をもって小西上人が発行していた『洗心』の購読者名簿を使わせて戴き、本多上人の業績顕彰のため本多上人の銅像建立の勧募の行脚を行い、さらにその寄付賛同者に呼びかけ購読・賛助を求めて昭和48年に少ない執筆陣の手書き原稿と、檀家の活版印刷所に〝安価にて〟と頼み込んで、『統一』誌を隔月の刊行して復刊しました。これが、現在の再刊『統一』誌です。やがて、昭和53年の義見の遷化後、同じく同師会の山口智光師、そして池田新一氏が理事長に就任しますが、すでに高齢で任期短く遷化され、和賀正道が理事長になります。
そして、昭和60年代に入り日本はいわゆる「バブル経済」となり、音羽の被災地の土地も高騰し、隣接道の拡張工事により、焼け跡の道路沿いの土地が都の買い取りとなり、旧来の資産登記では五十坪で2万円だった土地は坪単価3千万円となり、俄に財団の財産が復活しました。(このお金は全て今の財団本部がある音羽TIDビルの建設にあてられました。テナントフロアを設け、建設中の目論見ではテナント収入だけで運営に余剰金が出る予定でした)こうした財的基盤をもとに、平成2年の再刊百一号から財団内に嘱託編集部員(小生)を雇いオフセット印刷にて、季刊年4回発行、第三種郵便物認可を受け、発行を続けて、お陰さまで、現在通刊840号、再刊244号まで、一般にも親しめる内容なども盛り込むよう工夫しつつ、発行を続けてまいりました。
しかし音羽のTIDビルが竣工した平成4年、ついに日本のバブルは崩壊して、完成後三年余りはテナントは全く入らず、日本の〝失われた30年〟と公益法人改革の荒波をなんとか超えて参りました。
そして、令和8年3月末に専属職員の退職が退職し、令和8年1月号をもって、休刊致しました。

『統一』誌の表紙の変遷
明治・大正・昭和の100年に発行されてきた『統一』誌の表紙は各時代の空気を反映して変化してきました。ここではその中から戦前に発行されたものの中から8例を紹介しましょう。

明治35年9月

明治35年11月

明治45年3月

大正4年12月

大正5年1月

大正6年1月

大正12年11月

昭和19年8月