さそり座イメージ

ケンタウロス座

「サソリの灯」について再考

今回は、物語の流れを前後するついでに、以前掲載した内容について一点、修正をいたしたいと思います。
 タイタニック号の遭難をモチーフにしたと思われる客船が沈没し、凍てつく海で命が尽き、家庭教師と弟とともに列車に乗って来た「かおる子」が、かつて父から聞いた話としてサソリの話をします。その話はサソリ座の勇者オリオンを毒針で刺して天の星座に昇ったサソリの話とはまったく別の話で、その素材は『法句経』の中の「白黒二鼠」という喩え話だという説明を以前に掲載致しました。本連載の一九六号(二六年一月号)以下三回わたって関連の説明も致しました。それは「アメリカの心理学者であり、哲学者のウィリアム・ジェイムズの『宗教的経験の諸相』にトルストイの『我が懺悔』の一節が引用され、そこに東洋の寓話として白黒二鼠の話があり、時代状況から考えても賢治がジェイムズやトルストイの著作や『法句経』のいずれかに触発された可能性は高い」と述べました。また、サソリの自分の体を使って下さいという祈りは、ジャータカの『雑宝蔵経』に説く月に昇った兎の話を想起させると述べました。こうした記述についての修正です。そして、これはこの修正とは直接関係は無いのですが、物語の最大の謎「バルドラ」という語についての解答を呈示する準備としても示しておきたいと思います。

「毘摩国の狐」の説話

さて、賢治が哲学や星座や科学や文学に造詣が深く法華信仰に入っていたことはご承知のことと思います。賢治は東西の多くの書籍・翻訳書・日蓮聖人遺文・仏典までもを読んでいたわけですが、〝時代的にも読んだ可能性が高い〟とする論旨の正当性は、実は相当希薄です。
以前〈バルドラは賢治の時代に発見されたバルトロ氷河をもじったもの〉という説を検証し、夜空の星やサソリに関係がないので違う可能性が高いと述べました。この説は賢治の時代の、それも賢治が関心がある西域の冒険による発見だからという結節点と語感から述べられたものですが、賢治が知っていただろう、読んでいただろうという推論は、実はかなり曖昧な説明ではあります。
極力こうしたパラドックスは避けるようには注意しているのですが、「白黒二鼠」の譬話を賢治が知っていただろうとしたことが、恐らく違っていたことを以下に述べます。
昨年の暮れ、読者の方からメールをいただき、〝銀河鉄道の夜のサソリの話は毘摩大国の狐という仏教説話から〟とのご教示をいただき、資料もいただきました。資料中、〈父の残した物語〉として〝狐の悟りというお話でした〟として毘摩大国の狐の説話が引かれていました。仏教説話の日本仏教への伝搬は中国を経て複合・変化していったものが多く、この「毘摩大国の狐」の説話も中国天台宗第六祖妙楽大師湛然の『弘決』(摩訶止観輔行伝弘決)にあるもので、原始仏典に分類される『法句経』の「白黒二鼠」の説話が後に変化したものと思われ、典拠はやはり「白黒二鼠」と感じていました。しかし、年が明けて正月に日蓮聖人の御遺文集を拝読していましたところ、御遺文の或る頁の〝毘摩大国の狐は帝釈の師と崇められ〟の一文が目にとまりました。賢治も拝読していたと思われる霊艮閣版『日蓮聖人御遺文』(明治三七年刊)、通称『縮刷遺文』にも収録されている『聖愚問答抄』に日蓮聖人がこの物語を引かれていました。原文をあげます。
身の賎をもて其法を軽ずる事なかれ。有人楽生悪死有人楽死悪生の十二字を唱へし毘摩大国の狐は帝釈の師と崇められ、諸行無常等の十六字を談せし鬼神は雪山童子に貴まる。是必ず狐と鬼神との貴きに非ず。只法を重ずる故也。されば我等が慈父教主釈尊、双林最後の御遺言・涅槃経の第六には、依法不依人と…
また『身延山御書』にも「弘決四云…」として「毘摩大国の狐」の話が平易に詳しく引かれていました。(いずれも真偽未決遺文ではありますが)では物語のあらすじをみましょう。
毘摩大国というところに一匹の狐がいた。獅子に追われて逃げ、狐はたまたまあった深い井戸に落ちて命は助かったが、井戸から出られず飢え苦しんだ。そのとき狐は「禍なる哉、今日苦に逼られてすなわち命を丘井に没すべし、一切万物は皆無常なり恨むらくは身をもって獅子に飼わざりけることを。南無帰命十方仏、我心の浄くしてやむこと無きを表知し給え」と唱えた。このとき天にいる帝釈が狐の唱える声を聞き自ら下界におり、狐を穴から救い出し、高座を設けて悟った法を説くよう願った。鬼神に諸行無常の法を尋ねた釈尊の前世の雪山童子と同様に、相手がたとえ畜生や鬼神であっても、真実の法を説くところを聴聞することが大切です。
日蓮聖人の御遺文には「白黒二鼠」の説話の引用はありません。賢治がサソリが井戸に落ちる物語のモデルを日蓮聖人の御遺文によったか、『法句経』やトルストイの著作によったか確定できませんが、「一切万物は皆無常なり恨むらくは身をもって獅子に飼わざりけることを」すなわち、〝嗚呼むなしい、なんでこの身を相手にくれてやらなかったのか〟の表現は、猛り狂う象と旅人による「白黒二鼠」には無く、賢治の引用が日蓮聖人の御遺文に引かれている「毘摩大国の狐」によった可能性は高いのです。
念のために「白黒二鼠」のお話も再度、あらすじをきしておきます。
あるとき、一人の旅人が曠野で一頭の悪象に襲われた。必死で逃げて、空井戸があるのを見つけ、脇に生えている木の根に掴まり、井戸の中に隠れた。ところがそこに黒と白の鼠が現われて、木の根を齧り始めた。また井戸の周囲には「四毒蛇」がいて旅人を狙っている。さらに下にも毒龍がいて食いつこうとしている。旅人は大いに恐れながら、掴まっている木の根を見ると、そこに蜜が垂れているのを見つけた。彼はその蜜を五滴舐めた。木が揺れて蜂が舞い上がり、旅人を刺した…。
ついでにジャータカの『月に昇った兎の話も再掲しておきましょう。
帝釈天が狐と猿と兎との誠意を試そうとして、飢渇者に化けて食を乞うたところ、狐と猿は利口さを発揮して食物を探してきたが、兎は何も得ることができず、自分の体を焼いて食べてもらおうとしたため、帝釈天はその真心をほめ、兎を月世界へ送った。
「バルドラの野原」解明へ
いかがでしょうか、ここで銀河鉄道の夜の「さそりの灯」から〝死を悟ったサソリの悟り〟の部分を引いて対比してみましょう。
どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さいって云ったというの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしているのを見たって。いまでも燃えてるってお父さん仰ったわ。
〈からだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしているのを見たって。いまでも燃えてるって〉という部分はアンタレスの赤と、供養した体が永い年月闇を照らすという法華経の「薬王菩薩本事品」「妙荘厳王本事品」の薬王菩薩と薬上菩薩の本生譚のダブルイメージという一九七号の推論は是としても、井戸に落ちたサソリの悟りは、ご教示のように「毘摩大国の狐」によるものと考えます。
さて、では『銀河鉄道の夜』の中でかおる子が父から聞いた話としてする「サソリの灯」の物語は、獅子をイタチに、狐をサソリに変えただけなのでしょうか。この物語の本題ともいえるこの部分はどうも、それだけではないように考えます。
そして、これらは前号に示したように、サソリ座と白鳥座のキグナスの悲話、南十字と北十字(白鳥座)のイメージが重層交錯して組み込まれています。そして「サソリの灯」のこの記述がサソリが住む「バルドラの野原」の「バルドラ」という名前の正体にも関係していると思います。

〝トンデモ説〟が生まれる理由

数回にわたってサソリの灯、すなわちサソリ座のアンタレスについて考えてみました。「銀河鉄道の夜」の物語のテーマ、すなわち友を助けようと命を投げ出したカンパネルラの死、「ほんたうの幸」といった物語の中心課題が、夜空に昇ったサソリの思いとして、凍てつく海から夜空の列車に来た「かおる子」が、お父さんの語った話として語られる、物語の中核部分です。
 そして、かおる子が語るところのサソリが居た「バルドラの野原」とは何をあらわしているのでしょうか。この連載で挑む最大の謎だと思います。今回はその解答候補を示すためのいくつかの課題があることをあげてみます。
 さて、前回は昨年一月号にこの物語のサソリ座の話は『法句経』の「白黒二鼠」の話であろうとしたことが誤りで、〝有名な『法句経』だから賢治が読んでいたに違いない〟としたことが、実は賢治にとってもっと身近な日蓮聖人遺文『聖愚問答鈔』に引用されている「毘摩大国の狐」という湛然の『弘決』にある聴聞の素晴らしさを説く物語だったことを読者の方から教えられたことを書きました。
 〝有名だから〟〝時代的にも読んだ可能性が高い〟という論旨の正当性は希薄だとして、「バルドラ」を賢治の生きた時代に西域で発見された「バルトロ氷河」をもじったものだという説もまた、語感は似ているが根拠が薄いことを再度、示させていただきました。また、この連載では以前「ザネリ」をイタリアのコメディア・デラルテの道化従者(アルレッキーノの元となった)役「ザンニ」ではないかとしましたが、これもまた「バルトロ氷河→バルドラの野原」説と同程度根拠が薄いものかも知れません。
 かつて明治時代に東京帝国大学で哲学を学びバイロン翻訳者として知られた木村鷹太郎という方が大正時代に執筆し昭和三年に刊行した『一天四海五大州の大日蓮』という本を古書店で高額で購入し一読、唖然としたことがあります。当書には〝日蓮はアポローン〟〝善日麿はベンガル=妙法華国〟などの珍説は序の口で〝ワシントンは阿私仙人〟〝ケンブリッジは蓮華台の獅子〟〝ロングアイランドは「人民寿命無量」の誤訳〟など凄まじい〝解釈〟が揚げられています(読む価値は無いと思います、念のために)。
 つまり、木村鷹太郎という方は、本来王道楽土たる日本の本源は全地球に拡がって満ちていたがそれが日蓮聖人がお生まれになった日本に収縮収斂されていたのである、という驚愕のビジョンを五百頁以上にもわたって語感・訳の援用を主として展展する、珍書です。
 かつてお土産などで小さなゴム製の風船を容器にした球状の羊羹「玉羊羹」というものが流行したことがありました。以前からあった風船に入ったアイスボンボンを参考に、羊羹を詰めたものだそうですが、これを食べる際には楊枝など尖ったもので刺すとゴムが縮み丸い羊羹を戴けるわけなのですが、そのゴムが張った状態が本来の地球、ゴムがはじけ縮んだものが日本列島で、ここに全世界が集約されているというようなビジョンです。もっとも、玉羊羹は日中戦争中の昭和十二年に福島県の和菓子店「玉嶋屋」が戦場の兵士に送る慰問袋用の菓子として開発されたものだということなので、木村鷹太郎さんが玉羊羹を見てこの著の発想を得たというわけではありません。
 木村鷹太郎という方は帝国大学文科大学史学選科課程に入学、後に同学哲学選科課程に転じて、陸軍士官学校英語教授職等を務めた学解のある方であろうはずですが、この時代の熱気と日本語と外国語・文化の狭間に落ちた感は否めません。いつしか独自の歴史学説「新史学」の提唱者として歴史学者のようになり、近年では国立大学の歴史の書架に『海洋渡来日本史』という木村氏の〝とんでも本〟があることが話題になったことがあります。また、三十年数年ほど前には国語学者の大野晋氏が日本語・タミル語語源説、つまり、日本語の源流はインドにあるという衝撃の仮説を唱え話題の人になりましたが、今はほとんど支持を失っています。推論のズレから起こる制御不能状態は異端の妄想家だけが陥る現象ではなく一流の学者さえ陥るわけです。本連載ではこうした〝とんでも説〟に陥らないように注意を払っているのですが、少しの推論の甘さがやがて大きな結論のズレに繋がって、浅薄な知識・資料が多い分、そこから逃れられなくなる場合もあります。読者の皆さまの冷静な指摘は宝です。

〝お盆〟の語源の新説

さてお盆の季節です。そういえば「銀河鉄道の夜」の季節はお盆の季節であろうことを以前に示してみました。そこで、物語からは外れますが、先のような語感に関わる推論のズレの例として、以下にお盆、すなわち盂蘭盆の語源とされる「ウランバーナ」は誤解釈の可能性がある研究があることをあげておきましょう。
まずお盆は盂蘭盆の略とされていますが、お盆の語源はお供え物を入れる容器のオボンとするものもあります。『盂蘭盆経』がその一つで、この経では盂蘭盆という言葉は供物を入れたオボンの意味で使われています。つまり六世紀当時の中国人の多くは盂蘭盆の語を容器のオボンを指すものと誤解していて、その当時すでに盂蘭盆の意味や語源は不明になっていたようです。それに対して仏典の心の意義を示した方が大学者・玄応でした。
玄応は長安の僧で、玄奘のもとで訳経にたずさわっていましたが、貞観の末から勅を受けて音義を作る作業を開始しました。〈梵語の音写については、玄応から見て不正確な場合には「梵音訛也」として、正しい音写を漢字で示など、言葉に対して厳格な姿勢で向かった大学者です。
玄応はこの書で「盂蘭盆は正しくはウランバナ(烏藍婆拏)といい、これは倒懸、つまり逆さ吊りを意味するサンスクリット語である」と述べます。
つまり「お盆・倒懸」の解釈は七世紀なかばに玄応が著した、仏典の難解な語や梵語などの解釈と読みを記した音義書『一切経音義』の中に初出し、やがて中国や日本に伝わったといわれます。
地獄や餓鬼の世界に落ちて、逆さ吊りの苦しみを遭っている先祖を救う「倒懸救苦」の行事です。お盆の行事は大乗仏教文化の精華ともいえましょう。
ところが昭和四十三年、岩本裕先生の出版『目連伝説と盂蘭盆』でこの玄応の説に疑問が投げかけられました。すなわち、岩本氏はまずウランバナという言葉はサンスクリット文献のどこにも出てこないもので、元来そんな言葉は存在しないという指摘です。そして、「盂蘭盆が倒懸の意味を持つなら、盂蘭盆経に倒懸を示唆する語句が出てくるはずなのに、それがまったくない出てこないのもおかしいという。ただしインドの伝承に、祭祀をしてくれる子孫のいない死者は、餓鬼となって〝倒懸の苦を受ける〟というものがあり、その言葉がウランバナに似ていなくもない。そのためこの伝承から、一切経音義の著者の玄応は、盂蘭盆を倒懸の意味に解釈したのではないか」と推測し、盂蘭盆会の起源をイラン系の民族であるソグド人の先祖供養の行事に求め、ソグド語で霊魂を意味するウルバンを盂蘭盆の語源とし、シルクロードの交易に携わっていたソグドの商人たちが先祖供養の行事を仏教とともに中国に伝えたものだという説です。
これに対して近年は、雨安居(安居・夏安居)の最終日の「自恣」の行事に、信徒たちがブッダやサンガに供養する際の「オーダナ(ご飯)」をのせた盆が「盂蘭盆」の意味ではないかということが近年指摘されました。(オーラン→ウラン)の音写語とみる説が有力になりつつあります。単なる容器のお盆ではありません。お釈迦さまの故郷では稲作が盛んで、お釈迦さまの父も浄飯王(シュッドーダナ)と記されています。最初に玄応が否定した竺法護訳とされる『盂蘭盆経』に仏教の供養の「お盆」の解釈が戻ってきたわけです。
さて、以前、「鳥を捕る〝狐〟」として、鳥捕りの男は、琴座のベガ、はくちょう座のデネブ、鷲座のアルタイルから形作られる夏の大三角形の真ん中にある暗い星座「こぎつね座」で、この人が捕ってきて披露する雁や鷺や白鳥は異界へ渡る死者の魂の象徴ですが、男はジョバンニに「お菓子だ」と言われ大変慌てますが、その菓子の正体は「落雁」、お盆に仏壇に供える〝お供え〟であろうと述べました。「銀河鉄道の夜」の季節はお盆の季節、それも精霊流しが行われる送り盆の頃の物語ではないかと考えています。

◆タイタニック号から来た三人

この物語の主題部分に登場する「バルドラの野原」の「バルドラ」という言葉については正解と思えることに気付くまでにかなりの労力を費やしました。気付いてみますと、やはりこの物語のキーワードともいえる語と思います。その語源は求めにくく、皆さんもいままで納得いく説明に出会っていないと思いますが。この連載では、先回に書いたように、〝トンデモ説〟にならないように注意しながら、この「バルドラ」という言葉の意味に迫ります。この物語の中核を成すテーマと関連しているため、説明までもうしばらく周辺の登場人物について読み解いてまいります。
さて、ここでアルビレオの観測所を過ぎて乗車して来た、姉弟と青年について考えてみましょう。今までの経緯から推測すると姉弟というところから賢治の童話の一つである『双子の星』と関係しているのでしょうか。また夜空の「ふたご座」なのでしょうか。
童話『双子の星』のチュンセ童子とポウセ童子については「ふたご座」か「さそり座の尾の星」か「ペルセウス座の二重星団」かが検討され、童話の描写から天の川中央付近にある「ペルセウス座の二重星団」が記述によく合致するとされています。夜空の「ふたご座」はギリシア神話のゼウスの息子で双子の兄弟カストールとポリュデウケースの姿です。二人はそれぞれ神と人の両面を持ち、生命の永続を分かち合って地上と天上で半分ずつ暮らしています。また、ゼウスが白鳥に化けてレダに産ませた二つの卵から生まれたという話もあります。この星座は冬の夜半に天空に架かる星座で、銀河鉄道の経路からは離れています。
銀河鉄道に乗って来た姉弟と青年の三人は星座や星や神話の人物ではありません。
姉は「かおる子」、弟は「タダシ」、青年は二人の「家庭教師」です。乗っていた船が氷山に衝突して沈み冷たい海に浮かんで命が凍えて尽きようとしていて、気がつくと銀河鉄道に乗っていたというのです。銀河鉄道の物語はこの三人の登場でクライマックスに近づいていきます。一見、賢治の時代の大ニュースであるタイタニック号遭難に想を求めたした描写になっていますが、それだけではないようです。この三人は銀河鉄道の夜という物語においてジョバンニとカンパネルラを凌ぐともいえる〝タダモノ〟ではない存在感があります。それもそのはず、この三人は銀河鉄道の夜という物語が作られるに際して、そのひな形の童話の主人公たちだと思われます。すなわち、この姉弟はメーテルリンクの代表作『青い鳥』の主人公であるチルチルとミチルを源泉として、この物語に映し込んだものと考えられます。

メーテルリンクの『青い鳥』

『青い鳥』は明治四十一年(一九〇八)年発表の五幕十場の童話劇。作者のモーリス・メーテルリンクはベルギーでフランス語を話す裕福なフラマン人カトリック教徒の家庭に生まれました。『青い鳥』は和暦では明治四十四年にノーベル文学賞を受賞した話題作で日本では、大九年に民衆座が初演、大正十一年には舞台協会公演、大正十四年には築地小劇場公演が行われました。初版本は明治四十四年八月に島田元麿・東草水訳で実業之日本社から刊行されています。(初版本ではチルチルが「近雄」、ミチルが「美知子」となっています)
物語のあらすじは次のようになっています。
クリスマスイヴの夜のことです。貧しい木こりの家では二人の子ども兄チルチルと妹ミチルが寝ていました。そこに魔法使いが現れてて二人を死んだ兄妹たちや懐かしい人たちに会いたくはないかねと冒険に誘います。そして病気のむすめのために、青い鳥をさがしてきてほしい、青い鳥さえあれば、あの子はしあわせになれるという魔法使いのおばあさんに頼みで、光の精や水の精の導きや、犬やネコなどの不思議なお供をつれて、夢の中の世界へ青い鳥をさがしにでかけます。しかし、思い出の国へ行っても、幸福の国へ行っても、未来の国へ行っても青い鳥はみつかりません。やっとつかまえたと思うと、すぐ色がかわってしまいます。失意のうちに、約束の朝が来て、二人はベッドで目覚めます。すると隣に住んでいるおばあさんがやって来て、病気の娘がチルチルの飼っている鳥を欲しがっていると告げます。二人は鳥を飼っていたことを思い出し、見てみると驚いたことに青い色に変わっています。探し回った青い鳥は自分たちの家にいたのでした。二人がこの青い鳥を病気の娘にあげると、娘の病気が良くなって、娘がお礼にやって来ます。ところが二人で餌をやろうとしたときに、青い鳥はカゴから外へ飛んでいってしまいます。チルチルは、泣いている娘に向かって「いいよ。ぼくがまたつかまえてあげるからね」と、やさしく語りかけます。最後に、舞台の前面に進み出て、見物人に向かって次のように呼びかけるのです。
「どなたかあの鳥を見つけた方は、どうぞぼくたちに返してください。ぼくたち、幸福に暮らすために、いつかきっとあの鳥がいりようになるでしょうから」
『青い鳥』は明らかに死者の世界を描いています。あの世とこの世、生と死のうすあかりの世界です。この構想は賢治の銀河鉄道の夜のベースになったと見てもよいと思います。
原作はフランス語でL'Oiseau bleuで主人公チルチルはTyltyl、ミチルはMyltylと表記されています。〝チルチルミチル〟と語感よく訳したには堀口大學あたりからでしょうか、二人の名前のどちらを先に書くかは翻訳者及びその国の言葉の語呂で変わります。女の子の名前を先にすればミルティル・ティルティルです。 ここで一つの興味深い指摘をしておきたいと思うのですが、これは銀河鉄道に乗ってきた姉弟と青年は誰かという問題を解くために資料を集めていた際のこぼれ話として受け取って下さい。
 ◇       ◇ 
『青い鳥』の主人公の妹・Myltylの語はフランス語のMirrheを想起させるというお話しです。
ミルティルの語はかなりミルラ(Mirrhe)に似ています。このミルラは没薬、乳香(乳香樹の樹脂)から出来た香料のことで、カトリックやユダヤ教の儀式の際に、浄めのために焚かれます。古来、死体の防腐剤として使われたことから〝死〟の象徴です。救世主の誕生を祝ってマリアのもとを訪れた東方の三博士がイエスに贈った贈り物の箱に入っていたものが黄金・乳香・没薬です。黄金は王権の象徴で青年の姿の賢者を表し、乳香は神性の象徴で壮年の姿の賢者、没薬は将来の受難である死の象徴です。賢治がこのことを知っていた可能性は低いと思いますが、神秘学や心霊主義に詳しかった作者・メーテルリンクがMyltyl・Tyltylの名前にこうしたイメージを重ねた可能性があるのではないかと教えてくれた方がいました。(男の子ティルティルの名は単にミルティルの変化したものと解していいでしょう)
『青い鳥』は神秘学でいう「聖杯探求」のモチーフを戯曲化することに成功した作品という評価があります。メーテルリンクは、神秘思想に重大な関心を示し、世界のどこかには最高の叡智が隠されているに違いないと信じていたといいます。〝自分たちの文明にはその叡智が伝授されていないけれども、古代インド、エジプト、ペルシャ、カルデア、ヘブライ、ギリシャ、北欧、中国、アメリカにまで伝わったはずだ〟そのような完全な叡智の教えの一部分がバラバラになって不完全に知られているが、その完全形は存在し、特別な資格のある者だけにひそかに伝えられているはず。その完全な叡智について知るべく、プラトン、プロティノス、ヤーコブ・ベーメ、コールリッジ、そしてとりわけノヴァーリスの思想を深く研究し、それに傾倒したとされています。
その完全な叡智とは「死」と「死後」の秘密であったといわれています。幸せの青い鳥を求めて、二人が訪れた「思い出の国」は、濃い霧の向こう側にあり、乳色の鈍い光が一面にただよう死者の国でした。この「思い出の国」で、二人は亡くなった祖父と祖母に再会します。主人公の名前に見られるように、メーテルリンクが物語にこうした「死」を知り怖れない叡智についての構想を織り込んだことは明らかです。そうした構造に、妹・トシを失った賢治の精神が共鳴したにちがいありません。
 ◇       ◇ 
アルビレオの観測所を通過したあとに列車に現れた姉弟と青年。二人の姉弟のモデルは〝チルチルミチル〟の兄妹です。そして「家庭教師」は、青い鳥を探しに行く二人をはじめから見守っていた光の精のようにも見えますし、『青い鳥』を読んでこの物語を書いている賢治自身ともいえるます。さらに映し込まれたイメージを読み解けば、〝チルチル・ミチル〟は賢治と、メーテルリンクの作品を兄に勧めた妹・トシの姿が見えてきます。そしてこの『青い鳥』には後日談ともいうべき続編が存在します。        (つづく)

子どもは親を選んで生まれてくる

銀河鉄道のアルビレオの観測所を通過したあとに列車に現れた姉弟のモデルはメーテルリンクの『青い鳥』の〝チルチルミチル〟の兄妹。前号では、この『青い鳥』には後日談ともいうべき続編が存在するというところで紙数が尽きました。
『青い鳥』の発表から九年、大正七年に発表された『許嫁』という作品。右の図版は財団備蓄本です。大正十二年二月初版の神田富山房版です。青い鳥をさがす旅に出てから七年後、チルチルは十六歳になりました。
ある晩のこと、なつかしい魔法使いのお婆さんがあらわれ、チルチルが幸福な結婚をするために、その相手を見つけてあげようといいます。(ミチルは未だ幼いので〝理想の旦那さん〟探しには行かないのですね。話が複雑になりすぎますし)候補者は、チルチルの六人のガールフレンドです。「森」をはじめ、「先祖の国」とか「子孫の国」とか、さまざまな場所を訪れた末に、チルチルが見つけた結婚相手は意外な人物。その相手は六人のガールフレンドではなく、なんと七年前にチルチルが青い鳥をあげた病気の女の子だったのです。美しい娘に成長した彼女は、あの時以来、ずっとチルチルのことを想い続けていたのです。
チルチルの理想の結婚相手である彼女を選んだのは「子孫の国」にいたチルチルの未来の子どもたちです。彼らは、未来の自分たちの母親に抱きついたのでした。ここには、前に触れませんでしたが『青い鳥』と同じ世界観〝子どもは親を選んで生まれてくる〟という思想が見られます。前作の結論、幸せの青い鳥は遠くではなく近くにいるのだというメッセージも受けつがれています。
理想の結婚相手、〝ほんとうの幸せ〟「子どもは親を選んで生まれてくる」という描写に関連する『青い鳥』の内容を示しておきましょう。
第五幕第十場「未来の王国」の描写のあらすじになります。
青く輝く宮殿の広間には生まれ出る前のかわいらしい子供たちがまだ体験せぬ未知なる「生」について瞳を輝かせチルチルにさまざま尋ねます。やがて子どもたちは青い地球のお母さんのもとに旅だっていきます。このとき、宮殿の広間で習得した優れた発明だけではなく、罪でも病気でもよいから何か一つは土産を持っていかなければならないというのです。生まれるのを楽しみにしている子ども、友達と離ればなれを嘆いて生まれたくないと泣く子ども。しかし、時は勝手に選ぶことは出来ません。時の番人は告げます「さあ、死にに行くんじゃないぞ。生まれに行くんだ。さあ行け」
時の番人と子どもたちの間には〈…まだ医者がいると…もう医者は多すぎる。地の上でももてあましているのだ。…それから技師はどこにいる。…正直な人間が一人ほしい。一人だけでいいんだが、幻のように現れないか。正直な人間がどこかにいないか。…お前かい。随分やせこけているようだな。…こら。そこへ行く子供、そんなに急いじゃいかん。お前は何を持って来た。…何も持って来ん。空手か。じゃ、行くことはならん。…何か用意をして来い。お前の勝手で、大きな犯罪でも、大病でも何でもわしは構わん。兎に角、何か持って来い…〉こんなやりとりが続きます。
旅立ちの最後に、チルチルと生まれようとしている子どもの間に次のような台詞があります。

チルチル その袋の中には何が入っているの。何か持ってきてくれるの。
子供  (とても得意気に)ぼく三つの病気を持っていくんだ。猩紅熱と百日咳とはしかだよ。
チルチル へえ、それで全部なの?それからどうするの?
子供  それから? 死んでしまうのさ。
チルチル じゃ、生まれるかいがないじゃないか。
子供  だってどうにもならないでしょう?

賢治の妹・トシの死は、肺結核によるものでした。当時の日本では、肺結核のために若くて死ぬ人がたくさんいました。結核は不治の病気でした。
ほんとうの幸せ 
以前にも引用した銀河鉄道の夜の7章「北十字とプリオシン海岸」の冒頭を引きます。
「おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだろうか」
いきなり、カムパネルラが、思い切ったというように、少しどもりながら、急せきこんで云いいました。
ジョバンニは、(ああ、そうだ、ぼくのおっかさんは、あの遠い一つのちりのように見える橙だいだいいろの三角標のあたりにいらっしゃって、いまぼくのことを考えているんだった)と思いながら、ぼんやりしてだまっていました。
「ぼくはおっかさんが、ほんとうに幸になるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだろう」カムパネルラは、なんだか、泣きだしたいのを、一生けん命こらえているようでした。
「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないじゃないの」ジョバンニはびっくりして叫びました。
「ぼくわからない。けれども、誰だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸なんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思う」カムパネルラは、なにかほんとうに決心しているように見えました。
昭和元年頃に羅須地人協会の活動の理念をしるした『農民芸術概論綱要』の五行目に「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という至言がありますこの作品に取り組む前から賢治にとって〝ほんとうの幸せ〟は大きな真実に迫るテーマでした。
この『農民芸術概論綱要』には「宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷く暗い」「いまやわれらは新たに正しき道を行きわれらの美をば創らねばならぬ」「近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい」とあるようにふるき宗教をこえて美に昇華する理想が示されています。
以前にカンパネルラの名前の由来の候補として、。十七世紀に「太陽の都」(日本に於ける単行本刊行名『理想国』でした)を著し、哲人による統治のもと私有のない理想国家を描いたトンマーゾ・カンパネッラをあげたことがありますが。その著述に示唆を与えたものはプラトーンの『理想国』というものが以前、メーテルリンクの『許嫁』という古書を探す中で収蔵したことを思い出しました。主人公はソクラテスですが、概ねプラトーンの自説が述べられています。その第一章「正義と不正義」の五「正義と幸福」にはソクラテスとソフィニストの友人・トラシュマホスとの間に次のような会話があります。

ソ「善良なる生活を為せるものは幸福にして多幸といえどもなりといえども、不良なる生活を為す者は幸福に反するではないか」
ト「真に然り」
ソ「しからば正直なる者は幸福にして、不正直なるものは不幸ではないか」
ト「然り」 ソ「幸福は利益を意味せずや」
ト「もちろん」

『理想国』では幼い頃は体操と乗馬、音楽を学び長じて〝感覚の世界から実在に達しうる〟者を選び論弁を学ばせる、とあります。羅須地人協会の「羅須地人」の語に関して「修羅」の逆とかさまざまな説があります。賢治は、花巻の町が「花巻」というように、特別の意味は無い、と答えていたそうですが『銀河鉄道の夜』の用語を本稿では考えていますが、やはりこの「羅須地人」の語は何らかの意味があると思います。原子朗著『新宮沢賢治語彙辞典』に、内外の研究者による二十ほどの諸説が紹介されていますが、しっくりいくものが無いように感じます。「地人」に関しては内村鑑三の『地人論』(明治二十七年)なる著があり、いずれ本稿の後に解析を考えています。今、本稿をまとめていて、「羅須」に関しては、このプラトーンの『理想国』周辺の記述に解があるように思いました。いずれ取り組みたいと思っています。
今回は〝ほんとうの幸せ〟という、この物語のテーマが出たところから、ずいぶん星空から遠ざかってしまいました。次号は再び物語の夜空に話題を戻したいと思います。 『銀河鉄道の夜』創作の道しるべのひとつはメーテルリンクの『青い鳥』でした。もともとは妹トシが愛読し、兄にもすすめたとあります。古代の叡智を求め続けたメーテルリンクの代表作『青い鳥』は「死」と「死後」の神秘を旅する物語でした。
さて、お盆も送り火の頃の花巻の夜空に戻りましょう。
列車はアルビレオの観測所を通過し、姉弟と家庭教師があらわれたところです。この連載では、これまで列車を最後の南十字星にまですすめて、石炭袋と白鳥座の暗黒星雲がつながって丘に帰る、というところまで解いてまいりましたが、戻します。
前回までの『青い鳥』のテーマである生と死の旅とあわせてまとめます。銀河鉄道は始まりの北十字(白鳥座)と南十字は重なっていて、南十字の下の石炭袋でカンパネルラを見失ったジョバンニはもとの天気輪の丘に戻ります。ジョバンニは親友カンパネルラの死へ向かう想いに誘われ銀河鉄道に乗り、友と別れて、もとの町を見渡す丘、生者の世界にいる自分を自覚します。そして〝切符をしっかり持って、まっすぐに歩いて行く〟と心に決める、銀河鉄道の旅はこの境涯が目的地でしょう。 路線は花巻市街地を流れ、北上川にそそぐ瀬川、友が消えた夜の川面に写し出された古代・近代、西洋・東洋の星々と、死に向かう人々が乗客です。
瀬川については第八回でふれましたが、物語の現実世界の舞台になる描写として、再び賢治の教員時代の随想「イギリス海岸」を抄出します。
夏休みの十五日の農場実習の間に、私どもがイギリス海岸とあだ名をつけて、二日か三日ごと、仕事が一きりつくたびに、よく遊びに行った処がありました。(略)それは本たうは海岸ではなくて、いかにも海岸の風をした川の岸です。北上川の西岸でした。東の仙人峠から、遠野を通り土沢を過ぎ、北上山地を横截って来る冷たい猿ヶ石川の、北上川への落合から、少し下流の西岸でした。(略)日が強く照るときは岩は乾いてまっ白に見え、たて横に走ったひゞ割れもあり、大きな帽子を冠ってその上をうつむいて歩くなら、影法師は黒く落ちましたし、全くもうイギリスあたりの白亜の海岸を歩いてゐるやうな気がするのでした。(略)それに実際そこを海岸と呼ぶことは、無法なことではなかったのです。なぜならそこは第三紀と呼ばれる地質時代の終り頃、たしかにたびたび海の渚だったからでした。(略)ある時私たちは四十近くの半分炭化したくるみの実を拾ひました。(略)この百万年昔の海の渚に、今日は北上川が流れてゐます。昔、巨きな波をあげたり、じっと寂まったり、誰も誰も見てゐない所でいろいろに変ったその巨きな鹹水の継承者は、今日は波にちらちら火を点じ、ぴたぴた昔の渚をうちながら夜昼南へ流れるのです。こゝを海岸と名をつけたってどうしていけないといはれませうか。それにも一つこゝを海岸と考へていゝわけは、ごくわづかですけれども、川の水が丁度大きな湖の岸のやうに、寄せたり退いたりしたのです。それは向ふ側から入って来る猿ヶ石川とこちらの水がぶっつかるためにできるのか、それとも少し上流がかなりけはしい瀬になってそれがこの泥岩層の岸にぶっつかって戻るためにできるのか、それとも全くほかの原因によるのでせうか、とにかく日によって水が潮のやうに差し退きするときがあるのです。(略)
「イギリス海岸」この近くの丘が、銀河鉄道の発着点になります。そして何と、先号までのチルチル・ミチルと彼らを導き護る光、あるいはタイタニックから来た姉弟と家庭教師の遭難の原型となる記述も、この「イギリス海岸」という随想にあらわれているのです。先の引用の後半です。
(腕に赤いきれを巻き、はだかに半纒だけ着てみんなの泳ぐのを見てゐるどこか滑稽な)救助係はその日はもうちゃんとそこに来てゐたのです。腕には赤い巾を巻き鉄梃も持ってゐました。 「お暑うござんす。」私が挨拶しましたらその人は少しきまり悪さうに笑って、「なあに、おうちの生徒さんぐらゐ大きな方ならあぶないこともないのですが一寸来て見た所です」と云ふのでした。なるほど私たちの中でたしかに泳げるものはほんたうに少かったのです。 おまけにあの瀬の処では、早くにも溺れた人もあり、下流の救助区域でさへ、今年になってから二人も救ったといふのです。 実は私はその日までもし溺れる生徒ができたら、こっちはとても助けることもできないし、たゞ飛び込んで行って一緒に溺れてやらう、死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらうと思ってゐただけでした。(略)
いかがでしょうか。『銀河鉄道の夜』は賢治が推敲に推敲を重ね、最後まで心に残った作品です。それは決して空想だけではなく、妹トシを失った悲しみ、そして東洋から西洋をも統べる叡智に向かって地を這い、地を耕し、すべての人々が芸術・文化の世界に昇華せんとする、賢治の周囲のやさしい物事がキラキラと映し出されているのです。
それでは次にタイタニックから来た姉弟と家庭教師の部分を重ねてみましょう。この場面の前は、「何だか苹果の匂においがする。僕いま苹果のこと考えたためだろうか」とカムパネルラが不思議そうにあたりを見まわしたあとにこの姉妹と家庭教師が現れます。この間に灯台守として乗車しているヘラクレス座あるいは岩手のリンゴ博士の島善隣やカンパネルラとの会話があります。そして家庭教師の青年が話し始めます。随想「イギリス海岸」と相似する場面。

「船が氷山にぶっつかって一ぺんに傾もう沈みかけました。月のあかりはどこかぼんやりありましたが、霧が非常に深かったのです。ところがボートは左舷の方半分はもうだめになっていましたから、とてもみんなは乗り切らないのです。(略)近くの人たちはすぐみちを開いてそして子供たちのために祈って呉れました。けれどもそこからボートまでのところにはまだまだ小さな子どもたちや親たちやなんか居て、とても押しのける勇気がなかったのです。それでもわたくしはどうしてもこの方たちをお助けするのが私の義務だと思いましたから前にいる子供らを押しのけようとしました。けれどもまたそんなにして助けてあげるよりはこのまま神のお前にみんなで行く方がほんとうにこの方たちの幸福だとも思いました。それからまたその神にそむく罪はわたくしひとりでしょってぜひとも助けてあげようと思いました。(略)そのうち船はもうずんずん沈みますから、私はもうすっかり覚悟してこの人たち二人を抱いて、浮べるだけは浮ぼうとかたまって船の沈むのを待っていました。(略)それからぼうっとしたと思ったらもうここへ来ていたのです」
「なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから」
燈台守がなぐさめていました。
「ああそうです。ただいちばんのさいわいに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです」
青年が祈るようにそう答えました。

いかがでしょうか、随想「イギリス海岸」の「とても助けることもできないし、たゞ飛び込んで行って一緒に溺れてやらう、死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらうと思ってゐた」とう描写と『銀河鉄道の夜』の「私はもうすっかり覚悟してこの人たち二人を抱いて、浮べるだけは浮ぼうとかたまって船の沈むのを待っていました」の描写は、かなり似ていますね。
さて、今回は『青い鳥』の解説から夜空に戻ってきましたが、再び〝鳥捕りの男〟すなわち狐座のテリトリーの夏の大三角形を過ぎたところに戻りました。サソリ座のお話しの謎解きまでもう少し旅をします。

『銀河鉄道の夜』は賢治が推敲に推敲を重ね、最期まで推敲に推敲を重ねていた作品です。その世界は決して空想だけではなく、妹トシを失った悲しみ、そして東洋から西洋をも統べる叡智に向かって地を這い、地を耕し、すべての人々が芸術・文化の世界に昇華せんとする、賢治の周囲のやさしい物事がキラキラと映し出されているのです。その例として、賢治が教員時代のことを綴った『随想 イギリス海岸』から『銀河鉄道の夜』の描写と重なるところを引用しました。
そして、今回は夜空に戻り、再び〝鳥捕りの男〟すなわち狐座のテリトリーの夏の大三角形を過ぎたところに戻ったところです。作品では「鷲の停車場」へ向かうところですね。鳥取りの男は「狐座」で夏の大三角形をすぎると姿を消します。
難破船の海から来た三人はやっとおちつき、二人の幼い姉弟は眠りについたり、車窓の風景をしずかに眺めています。引用です。

燈台看守はやっと両腕があいたのでこんどは自分で一つずつ睡っている姉弟の膝にそっと置きました。
「どうもありがとう。どこでできるのですか。こんな立派な苹果は」
青年はつくづく見ながら云いました。
「この辺ではもちろん農業はいたしますけれども大ていひとりでにいいものができるような約束になって居ります。農業だってそんなに骨は折れはしません。たいてい自分の望む種子さえ播けばひとりでにどんどんできます。米だってパシフィック辺のように殻もないし十倍も大きくて匂もいいのです。けれどもあなたがたのいらっしゃる方なら農業はもうありません。苹果だってお菓子だってかすが少しもありませんからみんなそのひとそのひとによってちがったわずかのいいかおりになって毛あなからちらけてしまうのです」

賢治が抱いていた魂になった〝身体〟を持つ世界の想像の一端が垣間見えます。ちなみに、この林檎(苹果)をくれた灯台守はヘルクレス座でありまた、岩手が誇る林檎博士の島善隣博士と考えています。
男の子はまるでパイを喰べるようにもうそれを喰べていました、また折角剥いたそのきれいな皮も、くるくるコルク抜きのような形になって床へ落ちるまでの間にはすうっと、灰いろに光って蒸発してしまうのでした。
この後、カンパネルラとかおる子が車窓からの鳥の大群の交通整理のにぎやかな光景ではしゃいで、ジョバンニはカンパネルラから置いて行かれたような悲しい気持ちになってしまいます。賢治の何気ない、友達と大はしゃぎできない子供の気持ちを捉えたこうした描写は、子供の読者の気持ちを惹き付けていると感じます。
(どうして僕はこんなにかなしいのだろう。僕はもっとこころもちをきれいに大きくもたなければいけない。あすこの岸のずうっと向うにまるでけむりのような小さな青い火が見える。あれはほんとうにしずかでつめたい。僕はあれをよく見てこころもちをしずめるんだ。)ジョバンニは熱って痛いあたまを両手で押えるようにしてそっちの方を見ました。(ああほんとうにどこまでもどこまでも僕といっしょに行くひとはないだろうか。カムパネルラだってあんな女の子とおもしろそうに談しているし僕はほんとうにつらいなあ。)ジョバンニの眼はまた泪でいっぱいになり天の川もまるで遠くへ行ったようにぼんやり白く見えるだけでした。
子供の頃の微妙な三角関係、わかる方も多いと思います。さて、この〝大はしゃぎ〟の前に少し気になる描写があるので、引用してみます。

向うの青い森の中の三角標はすっかり汽車の正面に来ました。そのとき汽車のずうっとうしろの方からあの聞きなれた〔約二字分空白〕番の讃美歌のふしが聞えてきました。よほどの人数で合唱しているらしいのでした。青年はさっと顔いろが青ざめ、たって一ぺんそっちへ行きそうにしましたが思いかえしてまた座りました。かおる子はハンケチを顔にあててしまいました。ジョバンニまで何だか鼻が変になりました。けれどもいつともなく誰ともなくその歌は歌い出されだんだんはっきり強くなりました。思わずジョバンニもカムパネルラも一緒にうたい出したのです。

引用で〔約二字分空白〕となっているところは、多くの方や編集のかたが「三〇六」番の讃美歌としています。アルビレオの観測所で聞こえて、お婆さんが教えてくれた賛美歌の題名ですね。 日本キリスト教団讃美歌では三二〇番ですが一九五四年版には三〇六番です。〔約二字分空白〕となっているのは、あるいは別の讃美歌を入れたかったのかも知れませんね。船が沈没する場面では「たちまちみんなはいろいろな国語でいっぺんにうたいました」とあります。「主よ みもとに近づかん」は死の絶望に直面した者に力を与える讃美歌、神に対する信頼と熱望とに満ち溢れ讃美歌中最高のものと歌い継がれています。作者は作者サラ・フラワー・アダムス、有名なジャーナリスト、ベンジャミン・フラワーの娘です。
サラは俳優になることを望んだそうです。劇は説教壇と同様に宗教的な真理を教えることが出来ると信じました。しかし、生来虚弱な彼女は、間もなく舞台に立つ希望を捨てざるを得ず、失望の果てに彼女に開かれた道が作家となる道だったということです。以下に歌詞を引用しておきます。

 サラ・フラワー・アダムス

主よ、みもとに 近づかん
登る道は 十字架に
ありとも など 悲しむべき
主よ、みもとに 近づかん

さすらう間に 日は暮れ
石の上の 仮寝の
夢にもなお 天(あめ)を望み
主よ、みもとに 近づかん

主の使いは み空に
通う梯(はし)の 上より
招きぬれば いざ登りて
主よ、みもとに 近づかん

目覚めて後(のち) 枕の
石を立てて 恵みを
いよよ切に 称えつつぞ
主よ、みもとに 近づかん

うつし世をば 離れて
天駆(あまが)ける日 来たらば
いよよ近く みもとに行き
主の御顔を 仰ぎ見ん

仏教の立場から言えば、これは立派な引導文ですね。さて、ふたたび物語に戻りましょう。
そのとき汽車はだんだん川からはなれて崖の上を通るようになりました。向う岸もまた黒いいろの崖が川の岸を下流に下るにしたがってだんだん高くなって行くのでした。そしてちらっと大きなとうもろこしの木を見ました(中略)カムパネルラが「あれとうもろこしだねえ」とジョバンニに云いましたけれどもジョバンニはどうしても気持がなおりませんでしたからただぶっきら棒に野原を見たまま「そうだろう。」と答えました。そのとき汽車はだんだんしずかになっていくつかのシグナルとてんてつ器の灯を過ぎ小さな停車場にとまりました。
その正面の青じろい時計はかっきり第二時を示しその振子は風もなくなり汽車もうごかずしずかなしずかな野原のなかにカチッカチッと正しく時を刻んで行くのでした。
そしてまったくその振子の音のたえまを遠くの遠くの野原のはてから、かすかなかすかな旋律が糸のように流れて来るのでした。「新世界交響楽だわ」姉がひとりごとのようにこっちを見ながらそっと云いました。  なぜ、「かっきり第二時」、ななのでしょうか。次回はそのことから触れ、本号冒頭の賢治が目指した〝地を耕し芸術・文化に昇華せん〟とした羅須地人協会の名前についても考えます。

前回は、「鷲の停車場」へ向かう描写の引用をして終わりました。
汽車がだんだんしずかになっていくつかのシグナルと転轍機の灯を過ぎ、小さな停車場にとまります。「その正面の青じろい時計はかっきり第二時を示していました」とありましたが、なぜ「かっきり第二時」、なのでしょうかということを今回ははじめに考えます。
「もうじき鷲の停車場だよ」 とカンパネルラが告げます。この「鷲の停車場」はわし座α星アルタイルのと考えています。アルタイルは、わし座で最も明るい恒星で全天二十一の一等星の一つ。七夕の彦星としてよく知られている。こと座のベガ、はくちょう座のデネブとともに、夏の大三角を形成している星で、表面温度が太陽より高い若い星です。「青白い時計」はアルタイルでしょう。

少年小説四部作
「かっきり二時」という表現は賢治の「ポラーノの広場」にもありましたので示しておきます。
銀河はずうっと西へまわり、さそり座の赤い星がすっかり南へ来ていました。(略)ファゼーロはつめくさのなかに黒い影を長く引いて南の方へ行きました。わたくしはふりかえりふりかえり帰って来ました。うちへはいってみると、机の上には夕方の酒石酸のコップがそのまま置かれて電燈に光り枕時計の針は二時を指していました。
『ポラーノの広場』は、賢治が「少年小説」としていた四つの作品のひとつで、それは「銀河鉄道の夜」「風の又三郎」「グスコーブドリの伝記」とこの「ポラーノの広場」です。
〝モリーオ市の〟博物局で働く学芸員と農夫の子ファゼーロ少年たちが伝説のポラーノの広場を求める物語です。〝昔、モリーオ市の郊外の野原には、市民達が集って祭りを楽しんだというポラーノの広場があった。そこではよくコンサートやオーケストラがあり、どんな人でも上手に歌うことができるという伝説があった〟、それを探し求めるお話しです。どこかプラトンの『理想国』やカンパネッラの『太陽の都』とイメージが重なりますが、「かっきり第二時」とは関係がないようです。

花巻の夜の地平線からの角度
白鳥のステーションでは「かっきり第十一時」でした。もしかすると、これは賢治が居る花巻の地平線と、その時の天空の星座の位置を表しているのではないでしょうか。地表から天空の星座の見かけの角度を地表に投影すると約六十度です。つまり花巻の当日夜の天頂から三十度、地球儀に置き換えると、北緯三十度のところを示していると考えます。
新世界交響曲の舞台、アメリカ大陸ならテキサス州の首都オースティンがちょうど北緯三十度の町です。銀河鉄道の夜では汽車はどんどんのぼって「そうそうここはコロラドの高原じゃなかったろうか」とジョバンニが思ったと、あります。アメリカ、北緯三十度、高原、描写などから察するに、少し緯度はずれますが、この「鷲の停車場」は有名なグランドキャニオンの峡谷地帯の台地の上ということでしょうか。
汽車はほんとうに高い高い崖の上を走っていてその谷の底には川がやっぱり幅ひろく明るく流れていたのです。「ええ、もうこの辺から下りです。何せこんどは一ぺんにあの水面までおりて行くんですから容易じゃありません。この傾斜があるもんですから汽車は決して向うからこっちへは来ないんです。そら、もうだんだん早くなったでしょう。」さっきの老人らしい声が云いました。どんどんどんどん汽車は降りて行きました。崖のはじに鉄道がかかるときは川が明るく下にのぞけたのです。ジョバンニはだんだんこころもちが明るくなって来ました。汽車が小さな小屋の前を通ってその前にしょんぼりひとりの子供が立ってこっちを見ているときなどは思わずほうと叫びました。どんどんどんどん汽車は走って行きました。室中のひとたちは半分うしろの方へ倒れるようになりながら腰掛にしっかりしがみついていました。ジョバンニは思わずカムパネルラとわらいました。もうそして天の川は汽車のすぐ横手をいままでよほど激しく流れて来たらしくときどきちらちら光ってながれているのでした。うすあかい河原なでしこの花があちこち咲いていました。汽車はようやく落ち着いたようにゆっくりと走っていました。向うとこっちの岸に星のかたちとつるはしを書いた旗がたっていました。「あれ何の旗だろうね」ジョバンニがやっとものを云いました。「さあ、わからないねえ、地図にもないんだもの。鉄の舟がおいてあるねえ」「ああ」「橋を架けるとこじゃないんでしょうか」女の子が云いました。「あああれ工兵の旗だねえ。架橋演習をしてるんだ。けれど兵隊のかたちが見えないねえ」
銀河鉄道は今まで台地の上を走って来て、グランドキャニオンの崖をコロラド川岸まで一気に下る、今のジェットコースターのような表現です。ちなみに「星のかたちとつるはしを書いた旗」というのは旧ソビエト連邦の旗を想起させますが、当時の工事中の標識だそうです。

花巻野立所における
昭和天皇の統裁

羅須地人協会

さて、数回前に、羅須地人協会のことに触れ、前号にも、次号ではその名前についても考える、と書きましたので、本題から外れますが、ふれます。羅須地人協会の羅須地人という名付けについては、さまざまな論考がありますが、確たるものにあたりません。「演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります」と教え子に伝え、その幕を引くわけですが、農業と芸術・文化の融合の実践の場であったこの羅須地人協会は、以前は賢治が体調を崩したため停止したというのが定説でしたが、近年は、先の「演習が終るころ」、すなわち、昭和三年十月に花巻で行われた「陸軍大演習」を前にして行われた特高等の凄まじい「アカ狩り」から逃れ、賢治は重病であるということにして実家にて蟄居・謹慎していた、ということを端緒にして、その活動は停止していった、とされているようです。羅須地人協会の活動は当時の官憲からはアカ、つまり不穏な活動と見られ、事実、協会の参加者からも官憲に追放された者も出ていました。

賢治の教え子の小原忠氏は論考「ポラーノの広場とポランの広場」の中で「昭和三年は岩手県下に大演習が行われ行幸されることもあって、この年は所謂社会主義者は一斉に取調べを受けた。羅須地人協会のような穏健な集会すらチェックされる今では到底考えられない時代であった」と書いています。
賢治は労農党の理念の一部は支持し「経済的な支援や激励をしてくれた」(当時労農党盛岡支部役員小館長右衛門の証言)とあるように、羅須地人協会の活動は労農党の主張にも共鳴しつつ仏教的理念をでその実践を試みたものでもあった側面は頷けます。すなわち、国家主義の台頭が羅須地人協会の活動の停止した理由そのものだったと考えられます。
さて、それでは問題の「羅須地人」という言葉ですが、生前の賢治は「羅須」の命名に意味はないと語っていますが、地球を意味する「アース」、また、「修羅」を逆さまに読んだ「ラシュ」の転訛、エスペラント語で「ラソ」は「我らの」の意味の語、などさまざまです。
「地人」に関しては当時すでに、内村鑑三が「地理学考」(明治二十七年)の書名で刊行し、のち明治三十年に「地人論」と改め、刊行された「地人論」が市販されており、これに由来すると考えています。
〝日本国は西漸する西洋文明と東漸する東洋文明とを綜合止揚すべき世界的立場にあるとの確信を、世界地理と世界歴史とにより証明しようと試みたもので、「東西両洋の媒介者」たることを日本人の「天職」であるとした〟(岩波文庫版の説明)とありますが、キリスト教に傾倒し、日蓮聖人を『代表的日本人』として評価した内村鑑三のこの書名が由来と考えていいでしょう。
それでは「羅須」とは何でしょうか。しかし紙数が尽きました。このことについては次回に考えます。

鈴木守氏著作

羅須地人協会

さて、前号に、羅須地人協会のことに触れ、羅須地人協会は昭和三年十月に花巻で行われた「陸軍大演習」を前にして行われた特高等の凄まじい「アカ狩り」を端緒にして、その活動は停止していった、という花巻の賢治の研究者・鈴木守氏の説を紹介いたしました。
先日、岩手大学名誉教授の望月善治先生から財団に鈴木氏の詳細な研究をまとめた四冊の書籍の寄贈を受けました。また後日、宗内の賢治研究者に贈るため五セットを注文した折りに鈴木氏がちょうど上京ということで東京駅で直に本をおわけいただきました。今回も星空を離れ、羅須地人協会について書きます。
前号では、賢治は当時、関東大震災後に結成された農民労働党(後に左派と右派が分裂する)らの理念の一端は支持し「経済的な支援や激励をしてくれた」という元労農党盛岡支部役員小館長右衛門の証言を鈴木氏の著書から紹介いたしましたが、羅須地人協会の活動はこうした主張にも共鳴しつつも別の方法、仏教的理念と芸術文化の融合する実践を試みたものだったことを示しました。
賢治は「羅須」の命名に意味はないと語っていますが、よく考えると「羅須地人」という言葉はこの理念に沿った命名だったと見るほうが自然です。それは当時、労農党らへの弾圧に巻き込まれるのを避けるための発言とも考えられるのです。「羅須」という際立った語感と文字を冠した命名に意味が無いほうがおかしいと考える方が自然です。

「地人」とは

「地人」に関しては前号に述べましたが、この語は内村鑑三の「地人論」に由来すると考えます。岩波文庫版・明治三十年『地人論』から二箇所を引用します。

〝日本をして米、亜の文明に接しせしめしものは勿論その地理学上の位置に依れり、之をして亜細亜的の統一に堪えしめしものはその軸脈の南北にして一国の統帥を易からしめるが故なり〟
(第九章「日本の地理とその天職」)
〝文明中央亜細亜に創まり、北半球を一週して三様となれり、欧羅巴文明なり、亜米利加文明なり、亜細亜文明なり、三者皆目的を共にして各其質を異にす、人類全体の幸福は三者其特質を維持し益々之を発達するにあり、然れども文明は人類の生命力なれば常に増長するにあらざれば死滅するものなり、故に造化は三文明の為めに拡張の地を供へたり、「欧」は「非」を同化し、「北米」は「南米」に伸び、「亜」は其理想を「濠」に施こし以て益々其特質を発揚し得べし、過去四百年間人類の冀望は常に西に存せり、而して今尚ほ西方の発達訓化すべきあり、然れども文明の西漸その極に達する時はその南漸の始まる時なり、南漸は己に始まりぬ、未来一千年間人類の冀望は南にあるべし、而して西漸し終り、南漸し終り、人慾悉く去り、天理悉く存し、善と真と美とが水の大洋を掩ふが如く地球全土を掩ふに至て、此地創造の目的は達せられしなり、然れども吾人の義務は今の時にあり、此所にあり、吾人にして今此の時と所に処して能く吾人の天職を尽すにあらざれば最終の佳節は来たらざるなり、沈思万国図に対する時吾人をして神命の重きを感ぜしめよ〟
(第十章「南三大陸」)

最後の「神命の重きを感ぜしめよ」は旧版では「皇命の重きを感ぜしめよ」となっています。キリスト教に傾倒し、日蓮聖人を『代表的日本人』として評価した内村鑑三のこの書が羅須地人協会の「地人」の賢治命名の由来であろうと考えます。

「羅須」とは
それでは「羅須」とは何でしょうか。現代まで出ている説では地球を意味する「アース」、また、「修羅」を逆さまに読んだ「ラシュ」の転訛、エスペラント語で「ラソ」は「我らの」の意味の語、などさまざまです。
「修羅」に関しては賢治の詩集に有名な『春と修羅』があります。ここに二篇を引用させて頂きます。

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケツチです

これらについて人や銀河や修羅や海胆は宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうがそれらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりである程度まではみんなに共通いたします

(すべてがわたくしの中のみんなであるやうにみんなのおのおののなかのすべてですから)
(「序」)
いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾しはぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
(風景はなみだにゆすれ)
砕ける雲の眼路をかぎり
れいろうの天の海には
聖玻璃の風が行き交ひ
ZYPRESSEN 春のいちれつ
くろぐろと光素エーテルを吸ひ
その暗い脚並からは
天山の雪の稜さへひかるのに
(かげろふの波と白い偏光)
まことのことばはうしなはれ
雲はちぎれてそらをとぶ
ああかがやきの四月の底を
はぎしり燃えてゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
(「春と修羅」)

エスペラント語事典

エスペラント語「ラスティ」

賢治にとって「修羅」は内面の悲しみ等を表出する重要な仏教の教えに登場する阿修羅王です。実はこの連載でずっと解答を引き延ばしている『銀河鉄道の夜』の「バルドラの野原」の「バルドラ」の命名にも関係すると考えているのですが、今は述べません。しかし、「修羅」を逆さにして「羅修」、…意味は修羅と逆なのでしょうか、「平穏」「寂光」「安らぎ」…でしょうか。それは、どこか賢治の〝「羅須」の命名に意味はない〟という発言の雰囲気とそぐわない感じがするのです。そうであるなら、やはり説明はあると思うのです。
先日、東京早稲田の「日本エスペラント協会」に伺い聞いてみました。すると、辞書から「ラスティ」という用語を教えて下さいました。意味は「耕す」「掻き集める」です。「羅修」の語はエスペラント語の〝農耕〟「耕す」の語という解釈が、左記の労農党関連のこと、〝命名に意味はない〟といったことと符号するように考えられるのです。すなわち、羅須地人協会の名前には〝農業と東西文明を融合を実践し新たな文明を開く場〟という意味が込められていたのではないでしょうか。命名の由来はエスペラント語「ラスティ」と『地人論』の「地人」です。「ラスティ」の音写に「修羅」の語が年頭にあって「羅須」としたとも考えられますが、意味は「修羅」の逆というものでは無いと考えています。 

再び羅須地人協会について

さて、前号に、羅須地人協会の名前の由来について、「羅須」の語はエスペラント語の「ラスティ」の音写で〝農耕〟「耕す」の語に由来するのではないかという説明をいたしました。そして、花巻の賢治の研究者・鈴木守氏の説を引いて、羅須地人協会は昭和三年十月に花巻で行われた「陸軍大演習」を前に特高等が行った凄まじい〝アカ狩り〟を端緒にして、その活動は停止していったという指摘のあることを紹介しました。
鈴木氏はもちろん賢治の讃仰者の一人であろうことはその筆致からも伝わって来るのですが、なぜ、賢治のあまり立派ではない一面すらを研究されてきたのでしょうか。
それは、賢治の故郷に育ち、幼い頃から賢治を尊敬し、その類い希な才能を〝天才〟とまで思うからこそ、あまりに世間の文学者や出版社は賢治を理想的人物とする傾向があり、賢治の実像とはなれ、賢治の作品世界を歪めかねないことを憂えてのことと思います。
本連載を開始するに至る資料を蒐集を行った経緯も、鈴木氏の憂いと似た部分がありました。それはこの『銀河鉄道の夜』だけではなく、賢治の多くの作品や詩には作者の法華信仰を解釈しなければ解けない事柄が多いのに、一般では等閑視されていて、賢治の作品世界がゆがんで解釈され、賢治も望まないことだと思っていたからです。しかし、実はそのことも含めた〝賢治の法華文学〟だったのだと後に気付くことになりました。それは次のような理由です。
今まで説明してきました『銀河鉄道の夜』には、古代ギリシア・西洋・東洋・仏教・キリスト教などの真の生命・世界をめぐるイメージがダブルあるいはトリプルスタンダードに織り込まれています。読者は出来ればそれに気づかず物語を味わい、いつの間に自然に菩薩の心が胎動を始める。そうした無垢の仏性を社会に解き放つ、それは寿量品の「誤って毒を飲み苦しむ子供たちにあらゆる薬草を和合した味佳き良薬を飲ませる如来の方便」を文学で実践した菩薩行の一つだったと考えます。法華経と響き合う東西文明・宗教・化学・芸術を擣簁和合する、それが賢治の作品創作の眼目だったと思うのです。
とはいうものの、吉本隆明氏ほか数名しか、文学の領域で賢治と法華経について述べている方はいないのです。
ここであらためて、国柱会の高知尾智耀氏の『わが信仰わが安心』から「法華文学の創作」を引用します。大正十年、二十五歳の賢治が国柱会の門を叩き、その時会った賢治のことを後に高知尾氏が回想した一文です。
その間に私はしばしば賢治に会って信仰談を交わしたが、その時の私の話がもとになって、賢治が法華文学の創作に志したということは、帰寂の後になってはじめて私もこれを知った。それは彼の原稿などの入っていたトランクのふたの裏のポケットから、一冊の手帖が出てきた。その手帖の中にこういうことばがある。

高知尾師ノ奨メニヨリ
法華文学ノ創作
名ヲアラハサズ
報ヲウケズ
貢高ノ心ヲ離レ…※おごりたかぶり

私には法華文学の創作をすすめたという明確な記憶はないが、いろいろ信仰上の意見を交換した中には、当然私が田中智学先生から平素教えられている、末法における法華経修行のあり方について、熱心に話したことと思う。すなわちいわゆる出家して僧侶となり仏道に専注するのが唯一の途ではない、農家は鋤鍬をもって、商人はソロバンをもって、文学者はペンをもって、各々その人に最も適した道において法華経を身によみ、世に弘むるというのが、末法における法華経の正しい修行のあり方である、詩歌文学の上に純粋の信仰がにじみ出るようでなければならぬ、ということを話したように思う。
◇         ◇
己や人々にその自覚を促すのは教学や僧道布教だけではない、自らの文学・知識で正しい生き方を説いていこうと、賢治は考えたのでしょう。
先月、北海道の岡元錬城先生より、宗教学の正木晃氏が『元政上人と隆盛寺』(大神山隆盛寺刊)で「元政上人の身延山参詣」の一文で、そうした傾向を嘆いている一文があることをご教示いただきました。岡元先生が示された正木氏の文を引きます。
たとえば、宮澤賢治の場合、その文学の背景に法華経信仰があるのはあきらかにもかかわらず、研究者のほとんどは法華経を読んだことすらない。さる有名な研究者は、法華経を読むことを、意図的に拒否している。それで宮澤賢治を論じて、まったく恥じない。どうやら、文学の研究者と称する方々は、信仰が大嫌いらしい。特に仏教信仰が大嫌いらしい。なかでも法華経信仰や日蓮宗が大嫌いらしい。近年、宮澤賢治研究にたずさわってみて、得た実感である。
岡元先生は「私は悲哀のうちに正木氏の指摘に全面的に共鳴し、実感を同じくする」と述べられておりますが、賢治研究の資料にあたればあたるほど、同じ思いがわいてきます。
さて、先の鈴木氏の話に戻ります。鈴木氏はその著作でさらに、賢治は農業耕作の実働にあまり熱心でなかったであろうこと、〝羅須地人協会に訪れていて賢治を困らせた〟という評価を受けている〝悪女・高瀬露〟説の矛盾を指摘しています。
本年三月に今まで三冊に詳細に書いた内容をまとめ、五十頁ほどの小冊子にまとめた著作がありますので、興味があるかたは是非に鈴木氏の冊子を読んでみて下さい。
『「羅須地人協会時代」再検証 「賢治研究の更なる発展のために』(〒〇二五 〇〇六八 岩手県花巻市下幅二十一ー十一 鈴木守/送料込五〇〇円で五〇〇円切手を同封のこと)
賢治は「羅須」の命名に意味はないと語っていますが、よく考えると「羅須地人」という言葉は当時〝アカ狩り〟の対象となった労農党(労働農民党=農民組合を媒介とするマルクス・レーニン主義傾向の政党)の理念にも通じる名だったので、後にそう語ったのではないでしょうか。
「羅須」という際立った語感と文字を冠した名に意味が無いほうがおかしいと考える方が自然です。
「羅須」の語の説明ばかりが長くなりました。次に先号にも書きましたが「地人」の語についても補足します。「地人」の語に関しては、先号でも書きましたように、内村鑑三の、
「然れども吾人の義務は今の時にあり、此所にあり、吾人にして今此の時と所に処して能く吾人の天職を尽すにあらざれば最終の佳節は来たらざるなり」
と述べる「地人論」に由来すると考えます。『銀河鉄道の夜』には、賢治の法華信仰と、内村鑑三がこの『地人論』で述べていることにも見られる、賢治が生きた明治・大正の日本という国の現状と、〝世界に羽ばたく日本〟という夢が込められているのです。
〈今こそ理想の国が到来すべき時に至っている〉このカイロス(ギリシア語のクロノス=時・好機はすぐに捉えなければ後から捉えることは出来ない・好機・日蓮聖人の『撰時抄』の時)が幕末から明治・大正・昭和敗戦前を生きた日本人の魂を動かしたものの一つだったと考えます。『銀河鉄道の夜』という作品は、こうした思いを結晶させたような輝きを文底に沈め、それが法華経が嫌いな人にも、色・味わい佳く響いているのだと思います。
そうした意味では、この作品は先の寿量品が説くところの「毒を飲み苦しむ子供たちにあらゆる薬草を和合した味佳き良薬を飲ませようとしたが、中には心が顛倒して飲むのを拒んだ子供もいて、それを救おうと〝如来たる父はもう滅してこの世に居ない。最後にこの薬を遺した〟と伝え、子供達の病が癒えた後に再び永遠の姿を顕した、巧みな如来の方便」を文学で実現した、賢治の渾身の作品の一つだと思うのです。
さて、ずいぶんと星空を離れてしまいました、次号では再び花巻の夜空にかかる天の川に戻って、〝サソリの灯〟を見つめて、この物語の絵解き最大の難関「バルドラの野原」に思いを馳せたいと思います。

再び羅須地人協会について

高知尾師ノ奨メニヨリ
法華文学ノ創作
名ヲアラハサズ
報ヲウケズ
貢高ノ心ヲ離レ…※おごりたかぶり

これはアメニモマケズ手帳に記された賢治の法華文学への志でした。また、その手帳には、もう一つ重要な創作に対しての賢治の姿勢が示されていることを、先日お会いした岩手大学名誉教授・望月善次先生の原稿で知りました。
手帳には、
「断ジテ/教化ノ考タルベカラズ!/タゞ純真ニ/法楽スベシ」[「雨ニモマケズ」手帳、一三九頁]
とあります。
つまり、妙法蓮華経の考えがストレートに出るようでは駄目だ、と言っているのです。
前号に国柱会で賢治と面談した高知尾智耀師に賢治は「いわゆる出家して僧侶となり仏道に専注するのが唯一の途ではない、農家は鋤鍬をもって、商人はソロバンをもって、文学者はペンをもって、各々その人に最も適した道において法華経を身によみ、世に弘むるというのが、末法における法華経の正しい修行のあり方である、詩歌文学の上に純粋の信仰がにじみ出るようでなければならぬ、ということを話したように思う」と促したことを紹介しました。
それは童話作品を通して法華経如来寿量品の良医治子の喩えのように色香・味わいよい良薬として、方便をもって・知らず知らずのうちに服せしむものでなければならなかったわけです。一見、キリスト教のようにもとれる表現の裏に法華経の教えがそっと包まれているのです。
この数号、羅須地人協会の解説でずいぶんと星空から離れてしまいましたので、再び花巻のお盆の夜空にかかる天の川に戻って、〝サソリの灯〟を見つめて、この物語の絵解き最大の難関「バルドラの野原」に思いを馳せていきたいと思います。

「サソリの灯」について再考

十号以上前に触れたことなので、「バルドラの野」について触れる前に、話の筋をおさらいしておきます。
タイタニック号の遭難をモチーフにしたと思われる客船が沈没し、凍てつく海で命が尽き、家庭教師と弟とともに列車に乗って来た「かおる子」。彼女がかつて父から聞いた話として夜空のサソリの話をします。そしてその話は、ギリシア神話のサソリ座の勇者オリオンを毒針で刺して天の星座に昇ったサソリの話とはまったく別の話でした。
そしてサソリ座に関しては夜空に昇ってからもう一つの神話がありました。本連載で以前白鳥座のくちばし付近にある二重星アルビレオ、アルビレオの観測所のお話しをしましたが、太陽神アポロンの息子パエトンが太陽を曳く馬車に乗った話です。そこにはパエトンが父に内緒で太陽を曳く馬車を駆った時、馬の足を刺して暴れさせたサソリがいたのです。
しかし「かおる子」が語るサソリ座の話はその二つとは別の話です。
むかしのバルドラの野原に一ぴきの蠍がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。するとある日いたちに見つかって食べられそうになったんですって。さそりは一生けん命にげてにげたけど、とうとういたちに押えられそうになったわ。(九 ジョバンニの切符)
これは一般には、『法句譬喩経』の中の「黒白二鼠」 という譬喩の教えであろうという説が有力です。
ロシアの文豪トルストイもまた『わが懺悔』の一節に〝東洋の話〟として引いているおり、それを紹介したのは、賢治の時代に脚光を浴びたウィリアム・ジェイムズの『宗教的経験の諸相』だったことを述べました。

毘摩大国の狐

この「黒白二鼠」 の話は人気があり『ダンマパダ』を基に『仏説譬喩経』、『維摩詰経』への注釈『維摩経義疏』、『雑宝蔵経』、『賓頭盧突羅闍為優陀延王説法経』など多数の経論に引かれています。ちなみにイエズス会が天正十九年に刊行した伝道書『さんとすの御作業』にもあり、これを平田篤胤も『本教外篇』に異国の話としてとりあげているということです。
しかし、この話を一九七号に書いた後に、読者の方から、〝銀河鉄道の夜のサソリの話は毘摩大国の狐という仏教説話から〟とのご教示をいただき、資料もいただきました。
当初は「毘摩大国の狐」の説話は中国天台宗第六祖妙楽大師湛然の『弘決』(摩訶止観輔行伝弘決)にあるもので、原始仏典に分類される『法句経』の「白黒二鼠」の説話が先に成立しているのだから、その「白黒二鼠」の説話が後に変化したものと感じていました。
しかしあらためて日蓮聖人の御遺文のデータを検索していましたところ、御遺文に〝毘摩大国の狐は帝釈の師と崇められ〟の一文がありました。賢治も拝読していたと思われる霊艮閣版『日蓮聖人御遺文』(明治三七年刊)、通称『縮刷遺文』にも収録されている『聖愚問答抄』に日蓮聖人がこの物語を引かれていました。再び原文をあげます。
身の賎をもて其法を軽ずる事なかれ。有人楽生悪死有人楽死悪生の十二字を唱へし毘摩大国の狐は帝釈の師と崇められ、諸行無常等の十六字を談せし鬼神は雪山童子に貴まる。是必ず狐と鬼神との貴きに非ず。只法を重ずる故也。されば我等が慈父教主釈尊、双林最後の御遺言・涅槃経の第六には、依法不依人と…
それでは次に、この仏教説話のあらすじをみましょう。
毘摩大国というところに一匹の狐がいた。獅子に追われて逃げ、狐はたまたまあった深い井戸に落ちて命は助かったが、井戸から出られず飢え苦しんだ。そのとき狐は「禍なる哉、今日苦に逼られてすなわち命を丘井に没すべし、一切万物は皆無常なり恨むらくは身をもって獅子に飼わざりけることを。南無帰命十方仏、我心の浄くしてやむこと無きを表知し給え」と唱えた。このとき天にいる帝釈が狐の唱える声を聞き自ら下界におり、狐を穴から救い出し、高座を設けて悟った法を説くよう願った。鬼神に諸行無常の法を尋ねた釈尊の前世の雪山童子と同様に、相手がたとえ畜生や鬼神であっても、真実の法を説くところを聴聞することが大切です。
いかがでしょうか、「かおる子」の話の続です。
さそりは一生けん命遁げて遁げたけどとうとういたちに押えられそうになったわ、そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないでさそりは溺れはじめたのよ。そのときさそりは斯う云ってお祈りしたというの、ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さい。って云ったというの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしているのを見たって。いまでも燃えてるってお父さん仰ったわ。ほんとうにあの火それだわ。
「かおる子」の話すサソリ座の赤い星はどうやら「毘摩大国の狐」という仏教説話に由来すると見ても良いと思います。そして「帝釈が狐の唱える声」という一節が「バルドラの野原」の「バルドラ」の語の由来を指し示していると思うのです。
この『銀河鉄道の夜』の「かおる子」の話はやはり読者の印象に残るようで、日本人で「サソリ座の話」について聞くと、この話と思い込んでいる方が多いように思います。これはまさに賢治が「断ジテ/教化ノ考タルベカラズ!/タゞ純真ニ/法楽スベシ」という法華文学の中に読者が誘い込まれている一例でもあります。

バルドラの野原

さて、こうした読者の皆さんは、南天に輝く夏の星座「サソリ座」に星空のロマンと「バルドラの野原」というなにか、西洋の素敵な野原を抱いているかたも多いのではないでしょうか。しかし、今一度「かおる子」の台詞を見てみましょう。

そうよ。だけどいい虫だわ、お父さん斯う云ったのよ。むかしのバルドラの野原に一ぴきの蝎がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。するとある日いたちに見附かって食べられそうになったんですって。

いかがでしょうか、動物の世界といいますか、現実の世界そのものです。強者が弱者を倒して食べてしまうのは、この世の摂理のようでもありますが、理想郷というわけではないですね。
賢治の作品に『ビジテリアン大祭』という作品があります。ビジテリアンとは、菜食主義者(肉食を一切、拒否する者)のことで、三派あるという。動物性のものを、 まったく食べない。ミルク、 チーズバター、鶏卵も不可。/「大乗派」 肉食動物を食べることで、間接的に菜食動物を救うので、獅子・虎等などは食べてよいとする。/「折衷派」 ミルク・チーズ・ バター・卵などは動物の生命 をとるのではないから、食べて良い。
賢治は雨ニモマケズ」のなかで、「玄米四合ト/味噌ト少シノ野菜ヲ食ベ」とあるように、人間が生きて行くために、他の動物を殺すということを拒否する現代のベジタリアンを理想としていたと思います。
お腹がすいたイタチがサソリを食べる世界は畜生・修羅の巷です。「バルドラの野原」は決してロマンチックな場所を表現しているのではなく、強烈な毒を持つサソリと天敵のイタチが戦いを繰り広げ、両者とも窮地に落ちる修羅の一面をもった場所をあらわした語であろうことを念頭に置いて、次号以降、阿修羅王と帝釈の戦いから「バルドラ」の語を考察していきましょう。

阿修羅王

バルドラの野原とは

そうよ。だけどいい虫だわ、お父さん斯う云ったのよ。むかしのバルドラの野原に一ぴきの蝎がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。するとある日いたちに見附かって食べられそうになったんですって。
冷たい海で遭難し、銀河鉄道に乗り込んで来たかおる子とサトシと家庭教師の三人。これから天上の世界に向かうひととき、ジョバンニとカンパネルラらと車窓からサソリ座の赤い星を見て、サトシの「サソリって悪い虫だろ」という言葉を制して、昔お父さんから聞いたサソリ座の話をはじめます。

そして、ここで話される物語は、いわゆるサソリ座を説明する神話の話、すなわち勇者オリオンを刺した功績で夜空に昇ったサソリ座の話ではありません。また黄道十二宮の天空の運行に関係した話として伝わる二重星アルビレオをくちばしに持つ白鳥座誕生の悲話でもありません。
白鳥座誕生の話は河に落ちた友を助けるという、銀河鉄道の夜のストーリーと重なるので、少しここで復た簡単に触れます。父ゼウスや友人キグナスの制止を聞かずに、父の太陽の馬車に乗り、天空を駆け巡ったパエトン。最初は意気揚々と駆け巡るパエトンでしたが、ちょうど黄道十二宮の八番目の天蝎宮にさしかかかった時、そこにいたサソリが馬車の馬の足を刺しました。暴走を始める太陽の馬車。燃え上がる世界、父ゼウスはやむなく雷の矢を放ち、パエトンもろとも馬車を撃ち落とします。パエトンと馬車は遙か下方のエリダヌス河に落ちていきました。キグナスはカンテラを持ち暗い河に入り友人の姿を探し続けます。その姿を憐れんだゼウスはキグナスを白鳥の姿に変え夜空に昇らせました。そのくちばしにはキグナスが友を探しつづけたカンテラが、生を象徴するオレンジと死を象徴する青に明滅する二重星・アルビレオとして光っているのです。

そしてこの白鳥座は銀河鉄道最初の駅で北十字星と呼ばれ、これから、かおる子たちが赴く南十字と暗黒星雲・石炭袋の冥界でつながっているという説明を以前にいたしました。
そして、銀河鉄道の夜というこの物語の核心部分ともなる、かおる子が話す父から聞いた、サソリ座の話は、構造・あらすじが『聖愚問答抄』という日蓮聖人の御遺文に引かれている毘摩大国の狐という仏教説話と重なります。説話で登場するのは狐と獅子ですが、狐すなわち子狐座は、鳥を捕る男として登場しましたので、ここでは自然界でもサソリの天敵となるイタチ(沙漠ではマングース系の小動物)、狐を追いかけて井戸に落とす強者は獅子で、追い込まれるのは銀河鉄道が黄道第八宮・天蝎宮の蝎です。夜空にひときわ赤く燃える火のように輝くアンタレスがサソリの心臓です。さそりは前足一対が強い鋏、四対(八本)の足を持ち、前方側面に単眼の列、頭の上中央にも上向きに露出する接近した一対の単眼があります。まるで阿修羅王像のようです。
そして毘摩大国の狐のお話しにはもう一人、重要な登場人物がいます〝毘摩大国の狐は帝釈の師と崇められ〟とあるように帝釈天です。
「禍なる哉、今日苦に逼られてすなわち命を丘井に没すべし、一切万物は皆無常なり恨むらくは身をもって獅子に飼わざりけることを。南無帰命十方仏、我心の浄くしてやむこと無きを表知し給え」
狐(サソリ)の嘆いたこの言葉を聞きつけ帝釈天は天界からやって来たのです。
〝イタチに追い詰められて井戸に落ちたサソリ〟のお話の原型はこの毘摩大国の狐の説話で、そこには帝釈天が登場し、真実の命の価値をさとる者が狐から阿修羅王像のごとき「蛇蝎のごとく嫌う」などと、本土に棲息しないのに古来より嫌われるサソリになっているのです。

バルドラはロマンチック?

さて、私もずっと思って来ましたし、皆さんの多くも、バルドラの野原という言葉にロマンチックなイメージを持たれていることと思います。この銀河に輝く星々をめぐる列車の旅で、本当の命の価値について触れたかおる子が語った物語に登場する「バルドラの野原」、そこは花が咲き誇り、みずみずしい草や木漏れ日がゆれる、夢のように美しくしずかな場所、そんなイメージを私は持っていました。
しかしかおる子は「むかしのバルドラの野原に一ぴきの蝎がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって」と語っただけです。
お腹がすいたイタチが猛毒を持つサソリを追い回して食べる世界は決してロマンチックではありません。
〝バルドラの野原のバルドラは賢治の生きた時代に発見され新聞報道もされたカラコルム山脈中央部にあるバルトロ氷河であろう〟という説もあり、シルクロードを夢見た賢治のがその名のイメージを込めたという趣旨でしたが、氷河と「サソリ」「野原」など、説明が必要です。
何より今までこの連載で見てきたように、この物語には、宗教や東西の文明の叡智がダブルあるいはトリプルスタンダードに和合され、登場人物に映し込まれていたわけです。
仏教東漸の源のシルクロードに新たに発見された氷河の名前を映し込んだ、という推論は何となくわかりますが、ここはこの物語の中心命題を描いているところですので、もっと、根本的な意味が込められているはずだと思うのです。
私もかつてバルドラという地名をサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路にある町や宿に求めたりしましたが、たしかに似た名前はあるのですが、これでは妄説です。
今までのこの物語の絵解きしてきて明らかなように、この「バルドラ」には、単に語感とイメージを盛り込んだだけではなく、かなり重要な意味が込められている方が妥当です。
頭を冷やして考えますと、お腹がすいたイタチがサソリを食べる世界、これは現実の弱肉強食の世界であり、この世界で餓鬼の心で諍う修羅の一面を描いているのです。落ち読んでみると、ここではそういうことが書いてあるだけなんです。
かおる子が言う「バルドラの野原」は決してロマンチックな場所を表現しているのではなく、強烈な毒を持つサソリと天敵のイタチが戦いを繰り広げ、両者とも窮地に落ちる修羅の一面をもっているのです。
先ほど、生物のサソリの姿を阿修羅王像のようだと書いたのはこの説明のためです。そして毘摩大国の狐の説話には帝釈天が登場します。

教王護国寺帝釈天像
木芯乾漆造 像高106cm

興福寺阿修羅像
奈良時代 国宝

帝釈天と阿修羅王

阿修羅王の姿は、基本的には三面六臂(三つの顔に六つの腕)で描かれることが多い肌の色は褐色に赤い。阿修羅王は帝釈天に歯向かった悪鬼神と一般的にいわれますが、阿修羅王はもともと天界の神。阿修羅王が天界から追われて修羅界を形成したのには次のような逸話があります。
阿修羅王は正義を司る神といわれ、帝釈天は力を司る神といわれる。阿修羅王の一族は、帝釈天が主である忉利天(三十三天)に住んでいた。また阿修羅には舎脂という娘がおり、いずれ帝釈天に嫁がせたいと思っていた。しかし、その帝釈天は舎脂を力ずくで奪った(誘拐して凌辱したともいわれる)。それを怒った阿修羅王は帝釈天に戦いを挑むことになった。
帝釈天は配下の四天王などや三十三天の軍勢も遣わせて応戦した。戦いは止むこともなく続き、両者の瞳からは本来の戦う意味や可愛い娘の面影すら失せて久しい。阿修羅王の思いは正義ではあるが、娘の舎脂がやがて帝釈天を愛し正式な夫人となったのに、なお戦いを挑むうちに赦す心を失ってしまった。たとえ正義であっても、それに固執し続けると善心を見失い妄執の悪となる。このことから仏教では天界を追から離し、人間界と餓鬼界の間に修羅界を置いた。
この両者が「バルドラ」の語の命名の謎と意味を解く鍵になると思いますが、紙数が尽きました。次号でまた述べます。

物語の中心テーマ

前号よりいよいよこの連載で挑んできた『銀河鉄道の夜』の最難関の用語「バルドラの野原」の「バルドラ」について、述べています。〝『銀河鉄道の夜』の最難関の用語〟というのはどういうことでしょうか。この連載で、単なる描写や創作の固有名詞だろうと思っていたことが、銀河の星々の特性や東西両文明の神話が巧みに織り込まれたものであったことを読み解いてきました。そして、その中でもこの「バルドラの野原」の場面は、この物語の中心テーマである、友・隣人を無償の愛で自らの命をかえりみず救う行為の輝きと困難を描く場面だからです。
主人公のジョバンニは、友を救うため川に飛び込み友を舟に寄せて自らは溺れていった親友カンパネルラと、銀河鉄道を旅をします。

その行為の輝き、本当の価値、世の中に本当に大切なこと、〝ほんたうのさいはひ〟をサソリ座の赤い星アンタレス(Antares・全天二十一の一等星の一つである星)の輝きに寄せて命と思いの輝きを描く場面なのです。それは行為をともなった〝祈り〟でもあるのです。この物語は、〝祈りの実践〟への誓いという、かなりストイックな命題を、星々の間を旅する夜汽車の物語として、子供達へも知らず知らずに、やさしく効いていく〝良薬〟として賢治が心血を注いで、推敲に推敲を重ねた物語なのです。
「断ジテ教化ノ考タルベカラズ」
賢治が国柱会の田中智学の門をたたいたことは、このごろは普通に語られるようになり、安心しています。かつては、賢治童話のロマンチックな雰囲気を崩し、出版本の売れ行きが悪くなるからと、解説にもそうした記述を排除してきたようです。また文学者も賢治研究において法華経と日蓮聖人の思想背景を理解しなければ解けない命題を、ことさら遠ざけて論じようとしているようで残念に感じていました。
さて、この物語と賢治の妹トシの早世、二人で論じ合った信仰をめぐる思い、そして妹は死後どこに行ったのか、という賢治の悲しみと密接に関係しています。
このことについては、岩手大学名誉教授の望月善次先生から別の雑誌の原稿をお願いした際に次のような解説があり、重要と思えますので、引用させていただきます。
妹トシは賢治にとってかけがえのない存在であり、亡くなる前には、賢治が中心となっていた法華経の輪読会にトシも参加していました。しかし、トシは賢治と違って、法華経に絶対の信を置いていたとは断じ難いし、国柱会の会員でもありませんでした。それなのに賢治は「信仰を一つにするたつたひとりのみちづれ」[「無声慟哭」]と記し、トシの臨終に際しては法華経を称えたと伝えられていますし、遺骨を国柱会の「妙宗大霊廟」に分骨・納鎮しました。このことについては、栗原敦「二十世紀の意味における宮沢賢治の意味の一側面」、(『言語文化』№34/明治学院大学言語文化研究所 平成二十九年)、富山英俊「宮沢賢治とキリスト教の諸相――補論」(『言語文化』№34、上掲書)、浜垣誠司「「青森挽歌」における二重の葛藤~トシの行方と一人への祈り」(『言語文化』№34)、山根知子「宮沢賢治に影響をあたえた妹トシの信仰――「絶対者を求めて――」(『ノートルダム清心女子大学紀要』日本語・日本文学論編第40巻第1号 平成二十八年)、などの労作もあります。
銀河鉄道の夜では、こうした意味性が象徴化・あるいは意図的にサブリミナル的に使われています。その姿勢は寿量品の内容によっています。そこには仏の教えを前に良い教えを受けようとしない子どもたちと医師である父の話があります。
賢治の目指した文学は「法華文学」でありましたが、賢治はその創作に対して次のように述べています。
「断ジテ/教化ノ考タルベカラズ!/タゞ純真ニ/法楽スベシ」[「雨ニモマケズ」手帳、一三九頁]
教化の考えがストレートに出るようでは駄目だ、と言っているのです。

寿量品の「良医治子」の譬え
それでは賢治がそういう理解に至った理由の一つであろう、寿量品の原文を次に掲げます。長文ですが、普段はお寺の法要では「お自我偈」しか読まないことが多いので、詳しいかたも普段は触れない思います。自我偈の前の長行とよばれる部分の読み下しになります。
諸の比丘、如来は見ること得べきこと難しと。斯の衆生等、是の如き語を聞いては、必ず当に難遭の想いを生じ、心に恋慕を懐き、仏を渇仰して、便ち善根を種ゆべし。是の故に如来、実に滅せずと雖も而も滅度すと言う。又善男子、諸仏如来は法皆是の如し。衆生を度せんが為なれば、皆実にして虚しからず。譬えば良医の、智慧聰達にして、明らかに方薬に練じ、善く衆病を治す。其の人、諸の子息多し。若しは十、二十、乃至百数なり。事の縁有るを以て、遠く余国に至りぬ。諸の子、於後佗の毒薬を飲む。薬発し悶乱して地に宛転す。是の時に其の父、還り来って家に帰りぬ。諸の子、毒を飲んで、或いは本心を失える、或いは失わざる者あり。遥かに其の父を見て、皆大いに歓喜
し、拝跪して問訊すらく。善く安穏に帰りたまえり。我等愚痴にして誤って毒薬を服せり。願わくは救療せ見れて更に寿命を賜えと。父、子等の苦悩すること是の如くなるを見て、諸の経方に依って、好き薬草の色・香・美味、皆悉く具足せるを求めて、擣簁和合して子に与えて服せしむ。而して是の言を作さく。此の大良薬は色・香・美味、皆悉く具足せり。汝等服すべし。速やかに苦悩を除いて、復衆の患無けんと。其の諸の子の中に、心を失わざる者は、此の良薬の色・香、倶に好きを見て、即便之を服するに、病尽く除こり愈ぬ。余の心を失える者は、其の父の来れるを見て、亦歓喜し問訊して、病を治せんことを求索と雖も、然も其の薬を与うるに、而も肯て服せず。所以は者何。毒気深く入って本心を失えるが故に、此の好き色・香ある薬に於て、美からずと謂えり。父、是の念を作さく。此の子愍むべし。毒に中所為て心皆顚倒せり。我れを見て喜んで救療を求索と雖も、是の如き好き薬を而も肯て服せず。我れ今当に方便を設けて、此の薬を服せしむべし。即ち是の言を作さく。汝等当に知るべし。我れ今衰老して死の時已に至りぬ。是の好き良薬を今留めて此に在く。汝取って服すべし。差えじと憂うること勿れと。是の教えを作し已って、復佗国に至り、使を遣わして還って告ぐ。汝が父、已に死しぬと。是の時に、諸の子、父背喪せりと聞いて心大いに憂悩して、是の念を作さく。若し父在しなば、我等を慈愍して能く救護せ見れまし。今者我れを捨てて遠く佗国に喪したまいぬ。自ら惟みるに、孤露にして復恃怙無し。常に悲感を懐いて心遂に醒悟し、乃ち此の薬の色・香・味美きを知って、即ち取って之を服するに、毒の病皆愈ゆ。其の父、子悉く已に差ゆることを得つと聞いて、尋いで便ち来り帰って咸く之に見えしめんが如し。諸の善男子、意に於て云何。頗し人の能く此の良医の虚妄の罪を説く有らんや不や。不也、世尊。仏の言わく。我れも亦是の如し。成仏してより已来、無量無辺、百千万億那由佗阿僧祇劫なり。衆生の為の故に、方便力を以て当に滅度すべしと言う。亦能く法の如く、我が虚妄の過を説く者有ること無けん。爾の時に世尊、重ねて此の義を宣べんと欲して、偈を説いて言わく。(以下、自我偈)
いかがでしょうか、長い引用になってしまいましたが、法華経の如来の寿命の長いことを譬喩をもってかみくだいて述べた経典です。そして、これが賢治の創作姿勢の舵を導いたものであろうと思っています。

日蓮聖人の教と菩薩の「代受苦」

「バルドラの野原」の「バルドラ」の説明をしようと思いつつ、周辺の説明が長くなっています。
前号ではたしか、「バルドラの野原」はロマンチックな童話の舞台ではなく、良く読むと、生き物たちが食物を求めてお互いの命をかけてせめぎ合う、いわば修羅の世界の要素があるのですが語感と星空の物語につられて、まったくちがうイメージになってしまっているので、研究者も正解に辿りつけないで来た、というところまで述べました。
そして、その物語には阿修羅と帝釈天の戦いの悲話が関係している、として阿修羅と帝釈天の話を掲げました。そして、その教えは『聖愚問答抄』という日蓮聖人の御遺文に引かれている毘摩大国の狐という仏教説話と重なることをお話ししました。
引き延ばすようで恐縮なのですが、「バルドラ」を説明する前に、カンパネルラの自己犠牲とも思える行為と日蓮聖人の「代受苦」の思い、が深く重なっていることにふれて、「バルドラ」の説明は次回にします。 それは『立正安国論』の一文です。誰しもの願いである苦からの脱出の唯一の方法を示しています。
「汝、須く一身の安堵を思はば、先づ四表の静謐を祈るべきものか」 
この一文を岡元錬城師は『日蓮聖人 久遠の唱導師』の〈第十章「佐渡から鎌倉へ」一節 「代受苦」の思い〉で次のように述べてます。
「一身の安堵、個人の救済・幸福は、決して単独で存するものではなく、四表の静謐・全体の平安からもたらされる。全体の救いがなくては個の救いは幻想にすぎない。個が集まっての全体ではなく、全体の中にのみ個がある」
岡元先生はさらに
日蓮の心を引きついだ宮沢賢治は、『農民芸術概論綱要』のなかで『立正安国論』のことばを「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と詠いあげている。
この物語で述べられる〝ほんたうのさいはひ〟の指標は仏や菩薩が衆生の苦しみを代わりに受けることをいう「代受苦」であり、これが十字架のイエスの姿にも重なると賢治は捉えたのかも知れません。

◆バルドラの野原
前回は如来寿量品の長行の訓読の長い引用をして、法華経の如来の寿命の長いことを譬喩をもってかみくだいて述べた経緯であること、そしてこれが賢治の創作姿勢の舵を導いたものであろうということを示しました。
そして、賢治の目指した文学は建治の「手帳」の次の言葉が示すように。
「断ジテ/教化ノ考タルベカラズ!/タゞ純真ニ/法楽スベシ」
[「雨ニモマケズ」手帳、一三九頁]
つまりに、人を導いてやろうという教化の考えがストレートに出るようでは駄目で、自然に理法の世界を語るものではなければならないと言っているわけです。
そしてこれから考える「バルドラの野原」のサソリの話はこの物語の中心命題を示している場面です。
本当に尊い行為の輝き、本当の価値、世の中に本当に大切なこと、〝ほんたうのさいはひ〟をサソリ座の赤い星アンタレス(Antares・全天二十一の一等星の一つである星)の輝きに寄せて命の輝きを描く場面です。

◆〝バルドラ〟とは何か
さて、こうした重要な場面に出てくる「バルドラの野原」の「バルドラ」という名前に賢治はどんな意味を重ねたのでしょうか。それは当然、この場面のテーマに沿ったものであるはずです。今まで見てきたように、この物語に出てくる人物や性格や行動は銀河の星々の物語を東西文明が実はこの物語で融合している描写でした。「バルドラ」が単なる西域に見つかった「バルトロ氷河」の西域のイメージを重ねたものや、意味のない造語であるはずはありません。そしてここに描かれるサソリの物語は、星座神話の物語のサソリが天に昇った話とはかけ離れています。

子狐座

◆毘摩大国の狐
かおる子が話す父から聞いた、サソリ座の話は、構造・あらすじが『聖愚問答抄』という日蓮聖人の御遺文に引かれている毘摩大国の狐という仏教説話です。説話で登場するのは狐と獅子ですが、狐すなわち子狐座は、鳥を捕る男として登場しました。ここでは自然界でもサソリの天敵となるイタチ(沙漠ではマングース系の小動物)、狐を追いかけて井戸に落とす強者は獅子で、追い込まれるのは銀河の黄道第八宮・天蝎宮の蝎です。

夜空にひときわ赤く燃える火のように輝くサソリの心臓アンタレス。サソリは前足一対が強い鋏、四対(八本)の足を持ち、前方側面に単眼の列、頭の上中央にも上向きに露出する接近した一対の単眼があります。まるで恐ろしい一面と悲しみに憂える三面六臂の阿修羅王のようです。
毘摩大国の狐という仏教説話では、獅子(かおる子の話のイタチ)は狐(同・サソリ)を追い詰めます、追い詰められた狐(サソリ)は井戸に落ち、次のように嘆懐します。
「禍なる哉、今日苦に逼られてすなわち命を丘井に没すべし、一切万物は皆無常なり恨むらくは身をもって獅子に飼わざりけることを。南無帰命十方仏、我心の浄くしてやむこと無きを表知し給え」
これを聞きつけた帝釈天は天界からやって来て、この言葉・境地に至った狐(サソリ)に教えを請います。『聖愚問答抄』では
〝毘摩大国の狐は帝釈の師と崇められ、諸行無常等の十六字を談せし鬼神は雪山童子に貴まる。是必ず狐と鬼神との貴きに非ず。〟
とあります。狐(サソリ)は鬼神、すなわち阿修羅王でしょう。そしてこの阿修羅王と永遠に終わらない戦いを繰り広げているのが、帝釈天・雷神インドラです。

◆永遠に終わらない戦い
阿修羅・帝釈の神の戦いの発端については以前の述べましたが、再度掲げておきましょう。
阿修羅王は正義を司る神といわれ、帝釈天は力を司る神といわれる。阿修羅王の一族は、帝釈天が主である忉利天(三十三天)に住んでいた。
また阿修羅には舎脂という娘がおり、いずれ帝釈天に嫁がせたいと思っていた。しかし、その帝釈天は待ちきれず舎脂を力ずくで奪った(誘拐して凌辱したともいわれる)。それを怒った阿修羅王は帝釈天に戦いを挑むことになった。
帝釈天は配下の四天王などや三十三天の軍勢も遣わせて応戦した。
戦いは止むこともなく続き、両者の瞳からは、永い戦の末、本来の戦う意味や可愛い娘の面影すら失せて久しい。
阿修羅王の思いは正義ではあるが、娘の舎脂がやがて帝釈天を愛し正式な夫人となったのに、なお戦いを挑むうちに赦す心を失ってしまった。
たとえ正義であっても、それに固執し続けると善心を見失い妄執の悪となる。

◆戦いの虚しさを覚る
いかがでしょうか、『聖愚問答抄』では毘摩大国の狐すなわち阿修羅の己の戦いの虚しさの覚りの深義を聴聞しに、帝釈天が天界から配下とともに来集してくるのです。
 阿修羅と帝釈は和解して、お互いのいのちの真の目的〝ほんたうのさいはひ〟を見いだします。賢治はサソリ座の赤い星アンタレの輝きを阿修羅の怒りに燃える目に、〝蛇蝎のごとく嫌〟われる、サソリの心にみたてたのかも知れません。
 さてここまで述べれば賢明な読者の方は、「バルドラ」が何を意味するか、おおかた推察出来るのではないでしょうか。
 焦らして長引かせるようで、申し訳ありませんが(実際そうですね)、今回は紙数が尽きました。
 その答えは次号、インドの神々の説明をしてからはっきりと示させていただこうと思います。

◆狐の覚り
賢治の目指した文学は賢治の「手帳」の次の言葉が示すように。
「断ジテ/教化ノ考タルベカラズ!/タゞ純真ニ/法楽スベシ」
[「雨ニモマケズ」手帳、一三九頁]
つまりに、人を導いてやろうという教化の考えがストレートに出るようでは駄目で、自然に理法の世界を語るものでした。
そして今回明かす「バルドラの野原」の「バルドラ」こそ今まで数多の推論がありましたが、全面的に肯首できるものが無かったと感じています。また、これから示す、お話しも一つの推論でしかありませんが、幾分か従来の推論より、説明すべき要点を明示にしているものと思っています。その要点を示しておきましょう。
(一)星座になったサソリについて
話す、かおる子の父から聞いたというバルドラの野原のサソリの話は星座の物語の話とはまったく異なっていて、『聖愚問答抄』という日蓮聖人の御遺文に引かれている毘摩大国の狐という仏教説話で、キツネの最期に感じた諦め(諦観=さとり)の内容はこの物語の中心命題である、何が本当の幸いか、善き行いか、自分の生はどう有るべきだったのかという問いへの一つの示唆を示しています。
(二)バルドラという語について、
シルクロードのイメージがする当時新発見のバルトロ氷河説や単なる造語説ではなく、明確な意味を持っているはずに違いないという点に一応の〝解答〟を持っている。

◆帝釈天と狐
さて、重要な場面に出てくる「バルドラの野原」の「バルドラ」という名前に賢治はどんな意味を重ねたのでしょうか。それは当然、この場面のテーマに沿ったものであるはずです。
前号でサソリは一対の鋏、八本の足を持つ三面六臂の阿修羅王のようだと言いました。
また、溺れるキツネの「一切万物は皆無常なり恨むらくは身をもって獅子に飼わざりけることを。南無帰命十方仏、我心の浄くしてやむこと無きを表知し給え」という思いを察知して天界からその言葉・境地に至った狐(サソリ)に教えを請うのは帝釈天でした。
そして、インドの古代叙事詩《リグ・ベーダ》で、この阿修羅王と永遠に終わらない戦いを繰り広げているのが、帝釈天・雷神インドラです。すなわち、「バルドラ」とは阿修羅王と帝釈天のことだと考えます。

◆ロマンチックな語感?
読者の多くの皆さまも、バルドラの野原という言葉に何かロマンチックなイメージを持たれてきたことと思います。それは私も同じです。
銀河に輝く星々をめぐるロマンチックな列車の旅。そこで本当の命の価値について触れたかおる子が語った物語に登場する「バルドラの野原」は、花が咲き誇り、みずみずしい草や木漏れ日がゆれる、夢のように美しくしずかな場所、そんなイメージを私も持っていました。
しかしかおる子は、
「むかしのバルドラの野原に一ぴきの蝎がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって」
と語っただけです。
お腹がすいたイタチが猛毒を持つサソリを追い回して食べる世界は決してロマンチックではありません。毘摩大国の狐の説話で、狐がサソリに置き換えられたのは、当然、さそり座の場面ですので、理解できます。そして、獅子(ライオン)がイタチになったのも、狐がサソリになったことと連動して、沙漠、あるいは乾燥地帯の捕食者同士の戦いと思えば理解できると思います。
かおる子が言う「バルドラの野原」は決してロマンチックな場所を表現しているのではなく、強烈な毒を持つサソリと天敵のイタチ(マングース)が戦いを繰り広げ、両者とも窮地に落ちる修羅の一面をもっているのです。ちなみに、マングースは雑食性の哺乳類で、小型の哺乳類から鳥類、爬虫類、昆虫、果物など様々なものを食べます。体は細長くて四肢が短いので、日本に在来する動物で言うとテンやイタチに近い動物です。賢治がマングースを知っていたか否かは不明ですが、明治時代からマングースはインド原産の動物で、食肉目ジャコウネコ科マングース亜科の仲間で、コブラの天敵として知られています。雑食獣で、昼行性で主にヘビ、トカゲ、ネズミ、昆虫やサソリなどを餌としています。
日本には、明治四十三年に、当時の動物学の権威であった東京大学・渡瀬庄三郎名誉教授の進言でインドから、沖縄本島に持ち込まれ、サトウキビに甚大な被害を与えるネズミと毒ヘビ・ハブを退治に試用されたそうです。
しかし、マングースは毒蛇やサソリも捕食しますが、実際は沖縄ではハブやネズミは補食しないで、オキナワキノボリトカゲやヤンバルクイナ、奄美ではアマミトゲネズミやアマミノクロウサギ、ケナガネズミなどの島固有の希少種が犠牲となっていることが明らかとなったそうです。
マングースは、昼間しか行動しない動物で、ハブは夜しか動かない夜行性の動物です。もともとこの二種の動物が野外で出会うチャンスは極めて低く、別にヘビを専門に食べる動物ではありません。ハブみたいに危険な動物を餌にしなくとも、もっと楽に食べられるものがあれば、当然、そちらから食べ始めます。
そんな訳で、近年になって、沖縄島および奄美大島でマングースの駆除が行われ、これまでに二万匹近いマングースが捕獲されたそうです。 当時はマングースを和名の異称のネコイタチと紹介されていたそうで、賢治が、サソリを捕食するマングースをこの物語でイタチとしてサソリと対峙させたとしても、不自然や無理は無いように考えます。

◆阿修羅と帝釈天の永遠の戦い
「たとえ正義であっても、それに固執し続けると善心を見失い妄執の悪となる」これは前号までに述べた阿修羅のことです。
阿修羅の起源はメソポタミア文明の神。紀元前に栄えた文明を形作ったアッシリアの人々が信仰していたゾロアスターの太陽神です。
ペルシャのゾロアスター教と、インドのバラモン教は、元々は、北方からドラビダ人の住む地へ移住してきたアーリア人の宗教でした。したがって、彼らはもとは同じ宗教を信じてたと考えられています。
しかし、火や光を神聖視するグループと、水や自然を神聖視するグループの二つが生まれました。
火や光を神聖視するグループは、南西に移動し、現在のイランに定住し、一方、水や自然を崇拝するグループは、南東に移動し、インドに定住します。そして、この互いに勢力を競うイランとインドの宗教では、神と悪魔の逆転がおこります。
阿修羅は、起源的には、インド・イラン共通時代の神話に登場する最高神であるヴァルナ。すなわち古代インド神話における高い位神の一人ですが、今は魔族です。
しかし、当然、当初は阿修羅には悪役的な要素はあまりなく、単に男性神デーヴァ族の王インドラに敵対した天空神でした。しかし、時代が下りインドラの人気が高まると、阿修羅の暗黒的・呪術的な側面が強調され、魔族の代表に逆転しています。
この、帝釈天が代表的なデーバ(天)であるのに対し、阿修羅は典型的なヴァルナという位置づけは仏教にも継承され、戦いの虚しさを覚り仏法に帰依する護法神となります。
すなわち「バルドラ」の「バル」は阿修羅の「ヴァルナ」、「ドラ」は帝釈天・インドラの「ドラ」(=帝王・インドラの異称はデーヴェーンドラ Devendra=神々の帝王)と考えます。
また、間違っていますが、アーリア人の神・帝釈天をヴァルナ(天)征服されたインド土着のドラビダ人の信仰する神が阿修羅としてドラビダの「ドラ」を阿修羅としたとも考えられます。
「バルドラの野原」は、阿修羅と帝釈天が永遠に決着のつかない戦いを繰りひろげ、本当に護るべき者の姿まで忘れ去った修羅の野なのです。

バルドラの野原

前号でこの連載で考える最難関の謎、〝かおる子が父から聞いたさそり座の話の中に出てくるバルドラの野原〟の「バルドラ」について、一応の説明を致しました。
この物語の重要な場面に出てくる「バルドラの野原」の「バルドラ」という名前に賢治はどんな意味を重ねたのでしょうか。
それは当然、この場面の中心テーマ相応しいものであるはずで、今まで見てきたようにジョバンニやカンパネルラの名前と同様、この言葉にも東西文明や善悪を越え融合を試みたイメージが複合されているはずです。また、そうでない可能性の方がはるかに少ないと考えるべきです。
そして、前号に二つの、私どもが呈示する解の要点を示しました。
(一)星座になったサソリについて話す、かおる子の父から聞いたというバルドラの野原のサソリの話は星座の物語の話とはまったく異なり、『聖愚問答抄』という日蓮聖人の御遺文に引かれている「毘摩大国の狐」という仏教説話で、キツネが最期に感じた諦め(諦観=さとり)の内容はこの物語の中心命題である、何が本当の幸いか、善き行いか、自分の生はどう生かすべきかを示している。
(二)バルドラという語について、シルクロードの仏教東漸のイメージが重なる当時新発見のバルトロ氷河説や単なる造語説は多いが、〝明確な意味を持っているはず〟という点にいずれも〝解答〟を持っていない。この語は明確に、この物語の中心命題のイメージを包み込んでいるはずであろうし、そうでない可能性の方が低い。
そして、次の二つの解を示しました。
①「バルドラ」の「バル」は阿修羅の「ヴァルナ」、「ドラ」は帝釈天インドラ(=帝王・インドラの異称はデーヴェーンドラ Devendra=神々の帝王)の「ドラ」をとって「バルドラ」と顕した。
②現在の研究者のインドの神々の区分では間違っていますが、インドに東漸してきたアーリア人の神(天)・帝釈天をヴァルナ。征服されたインド土着のドラビダ(ドラヴィダ)人の信仰していた神が阿修羅。ヴァルナの「ヴァル(バル)」、ドラビダの「ドラ」を合わせて「バルドラ」と表現した。

争いを続ける愚かさ 
いかがでしょうか、さそり座のお話しとして語られる「バルドラの野原」は阿修羅と帝釈天の戦いが続いていたこの世界の映し世のような神話世界の悲しい物語りに誘っています。
両者は戦いの虚しさと、自分が目指すべきだった本当の目的にあったことを思い出し、自分の愚かさを悟り、真実を問いかけます。
正義は、それぞれの正義があります。絶対的な正義なんてものはありません。阿修羅にとっての正義、帝釈天にとっての正義、阿修羅の娘にとっての正義があるのに、そういった事を理解しないで戦争を続ける愚かさを戒めています。
まるで私たちの社会の映し世のようですね。人類の叡智が築いてきたこの世の歴史を眺めて、あらためて己が足元や周囲を見てみると、悲しく切なくなることでいっぱいです。

海神ヴァルナ
今回は阿修羅と帝釈天、すなわち「ヴァルナ」と「インドラ」、また「ドラヴィダ」と「インドラ」について専門外ですが補足を試みてみます。ここでは先に示した二つの解のいずれも「バルドラ」の語の生成を考える際には同じ情報です。要は「ドラ」が「インドラ」の「ドラ」か「ドラヴィダ」の「ドラ」かのいずれかを使ったということです。
賢治がこれから紹介するような仏教神話学に詳しかったかはわかりませんが、阿修羅と帝釈天の戦いと「毘摩大国の狐」という説話を南天にかかるさそり座の話として呈示しているのですから、私たちが考える以上に、インド神話の世界に知識はあったと考えます。
「ヴァルナ・Varuṇa」は近くはヒンドゥー教の神の名で、「水天」と漢訳されて少ないのですが、インドラに次いで重要な神でした。インドラが代表的なデーバ「天・deva」であるのに対し、ヴァルナは典型的なアスラ(阿修羅)に分類されています。ヴァルナの属性のひとつだった「水の神様」ですが、それは、ヴァルナがもともと自然崇拝の神(海神)だったことを意味しています。銀河鉄道の世界も水が大きなモチーフとして、使われていますね。

高貴な民族と自称するアーリア人

ドラヴィダ人は一般的に肌の色が黒く背が低いが手足が長く、ウェーブがかった髪などの特徴があります。インダス文明の担い手で、ホモ・サピエンスがアフリカのサハラ砂漠を越えてアジア大陸に広まっていった直後からインドに居住し、早い時期に農耕・牧畜を始めていたと考えられています。アーリア人たちのサンスクリット語文学が入る前から存在した独自のサンガム語・タミル語を使っていました。
時を経て、北方から肌の色が白く瞳の色が青や灰色で、背の高いアーリア人の移動が始まりました。
サンスクリット語の「アーリヤ (ārya)」、アヴェスター語のairyaが呼称の起源で、いずれも「高貴な」という意味で、他民族より「高貴な」民族と考えたアーリア人が自称した名称です。その姿勢が示す通り、彼らは時代と共にドラヴィダ人と同化していきましたが、やがてアーリヤ人が優勢になっていきました。彼らは紀元前十三世紀頃にはインドに侵入し、先住民族であるドラヴィダ人を支配する過程でバラモン教を創り上げたとされています。

民族・文化の衝突と融和

さて、神々の名前の古層や宗教の起源まで、専門外の領域にきて実に要領を得ない説明になって、もはやここまで話を拡げては、読者や筆者も、かつて紹介した木村鷹太郎の〝トンデモ本〟の世界に引きずり込まれてしまいそうなので、蛇足的な説明はここまでにします。
ともあれアスラは今でこそ悪魔や魔神であるという位置付けですが、より古いヴェーダ時代においては、〝インドラと対立する悪魔〟というよりは最高神的な位置づけであった時代が長いのです。
そしてインドラは『ラーマーヤナ』には天空の神として登場し、リグ・ヴェーダの神々の中心とも言える絶大な神で、ヒンドゥー教に至っても神々の中心の座はビシュヌやシバに譲りましたが、「雷を象徴する強力無比な英雄神」として、変わらず重要な立場にある神です。
「バルドラの野」は、民族の融合と衝突、融和と敵対、そして諍いの虚しさを象徴した命名なのでしょう。

バルドラの野原

この連載で考える最難関の謎、〝かおる子が父から聞いたさそり座の話の中に出てくるバルドラの野原〟の「バルドラ」について、説明を致しました。
この物語の重要な場面に出てくる「バルドラの野原」の「バルドラ」という名前に賢治は、生き物が生きて行く上で、襲う者と襲われる者、、互いの命を奪い合って生きて行く世界の摂理の悲しみを映し込んでいました。そしてそれはまた権力と権力、国と国の争いで、より大きな炎となって地を焼き尽くすこともあります。「バルドラ」は民族の融合と衝突、融和と敵対、そして諍いの虚しさを象徴する畜生界・修羅界の境遇をあらわした名前でした。
それは当然、この場面の中心テーマ「ほんたうのさいわい」という人生の大きな課題に読者を誘います。

ほんたうのさいわい
この物語には、「ほんたうのさいわい」について考えさせるいくつかの話が盛り込まれています。はじめに、バルドラの野原で鼬に追われて井戸に落ちて、もはや這い上がれない溺れゆく蠍嘆きです。

「ああ、わたしは今までいくつのものの命をとったかわからない。
そしてその私がこんど鼬にとられようとしたときはあんなに一生懸命逃げた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。
どうして私はわたしの体を黙って鼬にくれてやらなかったろう。
そしたらいたちも一日生き延びたろうに。
どうか神さま。
私の心をごらん下さい。
こんなに虚しく命をすてず、どうかこの次にはまことのみんなのさいわいのために私のからだをおつかい下さい」
って言ったというの。
そしたらいつか蠍は自分のからだが真っ赤な美しい火になって燃えて、夜の闇を照らしているのを見たって。いまでも燃えてるってお父さんおっしゃったわ。
ほんとうにあの火それだわ。
次はさそりの火の話をするかおる子たち、沈みゆく大船(タイタニック)とともに海に沈んだ家庭教師と姉弟の場面にもどって、「ほんたうのさいわい」についての描写を見てみましょう。「ジョバンニの切符」の章から、該当部分を引用します。
いえ、氷山にぶっつかって船が沈みましてね、わたしたちはこちらのお父さんが急な用で二ヶ月前一足さきに本国へお帰りになったのであとから発ったのです。私は大学へはいっていて、家庭教師にやとわれていたのです。ところがちょうど十二日目、今日か昨日のあたりです、船が氷山にぶっつかって一ぺんに傾きもう沈みかけました。月のあかりはどこかぼんやりありましたが、霧が非常に深かったのです。ところがボートは左舷の方半分はもうだめになっていましたから、とてもみんなは乗り切らないのです。もうそのうちにも船は沈みますし、私は必死となって、どうか小さな人たちを乗せて下さいと叫びました。近くの人たちはすぐみちを開いてそして子供たちのために祈って呉れました。けれどもそこからボートまでのところにはまだまだ小さな子どもたちや親たちやなんか居て、とても押しのける勇気がなかったのです。それでもわたくしはどうして もこの方たちをお助けするのが私の義務だと思いましたから前にいる子供らを押しのけようとしました。けれどもまたそんなにして助けてあげるよりはこのまま神のお前にみんなで行く方がほんとうにこの方たちの幸福だとも思いました。それからまたその神にそむく罪はわたくしひとりでしょってぜひとも助けてあげようと思いました。けれどもどうして見ているとそれができないのでした。子どもらばかりボートの中へはなしてやってお母さんが狂気のようにキスを送りお父さんがかなしいのをじっとこらえてまっすぐに立っているなどとてももう腸もちぎれるようでした。そのうち船はもうずんずん沈みますから、私はもうすっかり覚悟してこの人たち二人を抱いて、浮べるだけは浮ぼうとかたまって船の沈むのを待っていました。
燈台守 「なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから」
燈台守がなぐさめていました。

カンパネルラと賢治の妹トシ
この物語は、ジョバンニと共に銀河鉄道に乗車しているカンパネルラが、星祭りの夜に河で烏瓜の灯籠を流しているとき、誤って川におちた級友を飛び込んで助けようとして、溺れたことが発端となって、始まったことが、やがて明かされます。そして、このことを暗示する場面が物語の最初のころ、銀河鉄道に二人が乗り込んだ直後の、カンパネルラの言葉です。「プリオシン海岸」の章の冒頭です。

「おっかさんは、ぼくをゆるして下さるだろうか」
いきなり、カムパネルラが、思い切ったというように、少しどもりながら、急せきこんで云いました。
ジョバンニは、
(ああ、そうだ、ぼくのおっかさんは、あの遠い一つのちりのように見える橙いろの三角標のあたりにいらっしゃって、いまぼくのことを考えているんだった。)と思いながら、ぼんやりしてだまっていました。
「ぼくはおっかさんが、ほんとうに幸になるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだろう。」カムパネルラは、なんだか、泣きだしたいのを、一生けん命こらえているようでした。
「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないじゃないの。」ジョバンニはびっくりして叫びました。
「ぼくわからない。けれども、誰だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸なんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思う。」カムパネルラは、なにかほんとうに決心しているように見えました。
この物語のカンパネルラは、二十四歳の若さで逝った賢治の妹・トシと重なりあうと解説書にもあります。親友と最愛の妹、それは『春と修羅 〔第一集〕』に収録されている「永訣の朝」という詩に、その死に立ち会った賢治の悲しみが痛いほど伝わってきます。まず冒頭の部分です。
けふのうちに とほくへ いってしまふ わたくしの いもうとよ みぞれがふって おもては へんに あかるいのだ
トシ あめゆじゅ とてちて けんじゃ
ああ とし子 死ぬといふ いまごろになって わたくしを いっしゃう あかるく するために こんな さっぱりした 雪のひとわんを おまへは わたくしに たのんだのだ
トシは何も助けられないと苦しむ兄に「茶碗に今降っている雪が欲しい」と頼みごとをして、兄がそれを叶えることによって少しでも悲しみを和らげられたらと思ったのでしょう。死に際に飲み物や食べ物を頼んで満足したように旅立った人たち。妹は兄のことを心配していたから、賢治を病院の表に出してやったのです。そしてこの詩の最後は次のような言葉で結ばれています。
おまへがたべるこのふたわんのゆきに わたくしはいまこころからいのる どうか これが兜率の天の食に変わってやがては おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすことを わたくしの すべての さいはひを かけて ねがふ
賢治は、この最終句の前に、括弧で囲んで、少し本文より下げて、自分の心の叫びを書き入れています。
(うまれでくるたて こんどはこたにわりやのごとばかりで
くるしまなあよにうまれてくる)
「また生まれて来るのなら、今度はこんなに自分のことばかりで苦しまないように生まれて来る」。
兄を気遣う妹の死を通して、自分がみんなの幸せを願えるような人間になりたいと思い至ったのです。この詩に関してはもう少し説明をしたいと思いますが紙数が尽きました、次号でまた。

賢治とトシ

前号では、銀河鉄道の夜の物語のカンパネルラは、二十四歳の若さで逝った賢治の妹・トシの姿と重なるという説があることを紹介しました。そして『春と修羅』 〔第一集〕に収録されている「永訣の朝」を紹介しました。
児童文学のすぐれた研究で知られる小西正保氏は賢治とトシ、ジョバンニとカンパネルラの関係をさらに深く捉えています。一節を引用させていただきます。
「この作品のなかのジョバンニとカムパルネラを、賢治とトシというふうに重ねあわせて読んでいくと、死の世界へ行ってしまったカムパルネラ(トシ)とともに幻想四次元の銀河鉄道に乗って、どこまでもともに行きたいと願うジョバンニ(賢治)の思いが、強くつたわってきます」
たしかにこの物語の終盤、列車の乗客がすべて降りて、ジョバンニとカンパネルラだけになったあとの二人の会話は、賢治とトシの会話を想像させます。

夜空の十字架と天の孔
「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸さいわいのためならば僕のからだなんか百ぺん灼やいてもかまわない。」
「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙なみだがうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。
「僕たちしっかりやろうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新らしい力が湧わくようにふうと息をしながら云いました。
「あ、あすこ石炭袋だよ。そらの孔だよ。」カムパネルラが少しそっちを避けるようにしながら天の川のひととこを指さしました。ジョバンニはそっちを見てまるでぎくっとしてしまいました。天の川の一とこに大きなまっくらな孔がどほんとあいているのです。その底がどれほど深いかその奥に何があるかいくら眼をこすってのぞいてもなんにも見えずただ眼がしんしんと痛むのでした。ジョバンニが云いました。
「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」
「ああきっと行くよ。ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集ってるねえ。あすこがほんとうの天上なんだ。あっあすこにいるのぼくのお母さんだよ。」カムパネルラは俄かに窓の遠くに見えるきれいな野原を指して叫びました。
引用の終わり頃に出てくる「石炭袋」については、かつてこの連載でもふれましたが、南十字星のすぐ近くにある暗黒星雲です。そしてこの物語の冒頭に出てくる白鳥座にも北の石炭袋と呼ばれる大規模な暗黒星雲があります。白鳥座は〝北十字〟ともよばれています。この銀河鉄道は旅の終わりの南十字の〝天の孔〟と、旅の最初の駅・白鳥座すなわち北十字の〝天の孔〟でつながっている〝幻想四次元鉄道〟なのだと思います。カンパネルラの「あすこがほんとうの天上なんだ。あっ、あすこにいるのぼくのお母さんだよ」という言葉はジョバンニには見えませんでしたが現世と冥界が〝幻想四次元〟ではつながっていて冥界からは美しい理想の現世が仄かに見えるという意味なのかもしれません。
カンパネルラの見た「あすこの野原」は常寂光土、法華経の信仰を極めた者が見るこの世の真の姿をこう表現したのかもしれません。日蓮聖人は常寂光土について、凡夫はこの世を迷いと苦悩の世界だと思ってるが、信仰を極めた者には常寂光土の久遠の釈尊が常住していると説いています。賢治はこの常寂光土を〝幻想四次元鉄道〟から仄かに見える天の野原として登場させたのではないでしょうか。

永訣の朝

「永訣の朝」
次に「永訣の朝」についてもう少しふれます。親友であり最愛の妹の死に立ち会った賢治の悲しみが痛いほど伝わってくる詩です。
(うまれでくるたて こんどはこたにわりやのごとばかりで くるしまなあよにうまれてくる)「また生まれて来るのなら、今度はこんなに自分のことばかりで苦しまないように生まれて来る」。
という賢治の嘆き。これは〝自分の悲しみに押し潰されて苦しんでばかりでは情けない、もっと人のために生きなければ〟という賢治の仏教信仰に根ざした人生の誓いが読み取れます。
大正七年に、トシが母に宛てた手紙の一節を引用します。

私は人の真似はせず、できるだけ大きい強い正しい者になりたいと思います。
御父様や兄様方のなさることに何かお役に立つように、そして生まれた甲斐の一番あるように求めていきたいと存じて居ります。
賢治とトシは人生の意味について、共に考え夢を語った盟友だったのでしょう。その妹が死の間際に嘆き悲しむ賢治に妹は〝激しい、激しい、熱や喘ぎの間から〟「あめゆじゅ とてちて けんじゃ」(雨雪  取ってきてください)とひと碗の雪を頼んだとあります。それは為す術が無く嘆き悲しむ賢治への妹の気遣いだったにちがいありません。
賢治は兄を気遣う妹の死を通して、自分がみんなの幸せを願えるような人間になりたいと思ったのです。それが「今度はこんなに自分のことばかりで苦しまないように生まれて来る」〝もっと人のために生きなければ〟という思いに到ったのです。
列車にジョバンニとカンパネルラだけになったあとの二人の会話はこうした賢治とトシの心の交流を映したものだと思います。
さて、この連載も物語の終盤に近づいてまいりました。この作品の最大の謎「バルドラの野原」のバルドラは阿修羅と帝釈天の悲しい戦いをあらわしていました。星の世界に映し込んだこの物語には賢治の仏教信仰から得たさまざまな理解が包み込まれるようにあるのがわかります。星座という古代の神話と東洋の文明が心地よく映し込まれています。
『農民芸術概論』の「序論」には有名な次の一節があります。
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
われらは世界のまことの幸福を索ねよう求道すでに道である
冒頭の「世界がぜんたい」は、よく「世界ぜんたい」と記されているようです。インターネットではこの「世界全体」が圧倒的に多いようです。しかし、「世界全体」と「世界が全体」では多少意味が違います。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」ということは、世界はそれぞれ個と個が連なって、あらゆる銀河も巨大な空間も木々のかすかな葉脈も土や微生物も調和し合える常寂光土の姿を顕さなければ、ほんとうの幸いではない、という賢治の仏教理解の真髄が込められています。「木を見て森を見ず」といいますが、個人は往々にして自分の周囲にしか目がいかず、それらが調和して出来上がっているべき森のことが見えない、それでは全然足りない、というわけです。
付言ですが、山川草木悉皆成仏という仏教語があります。眼に見えないすべてのものを含め、この世に存在するすべてのものが、本来の姿に立ち返らせようとして、間断なく働いていて、存在するすべてに仏性が宿るという考え方です。
しかし、これは仏性をもっているから、すでに自分は仏だ、という「万物は本から覚っている」という本覚思想に陥ってしまいがちです。それでは賢治の言葉は価値を失ってしまいます。再び紙数が尽きました。

再び〝世界がぜんたい〟について

前号では、賢治が羅須地人協会時代に書いた『農民芸術概論』の「序論」の一節、
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する…
を引いて「世界がぜんたい」であって「世界ぜんたい」ではない、そこには大きな違いがあることを掲げてみました。その点について今号では少し補足してみます。
まず、「世界がぜんたい」以後の文を見てみましょう。

自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識して
これに応じて行くことである
われらは世界のまことの幸福を索ねよう求道すでに道である
いかがでしょうか「個人の意識は個人から集団社会 宇宙と次第に進化する」、ここまでは「世界全体」でもいいように思えます。〝地球全体の人類・生物の平和な世界の訪れが、真の幸福の世界のなのだ〟と、いうことで、「世界ぜんたいが」で良いのではないかと思う方も多いと思います。しかし数行先の、
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
この表現は、単なる世界平和を語っていることから、大きく精神世界へと向かっています。〝すべてのものは つながりあってできている〟という気づきと、求道心です。
ちなみに「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」の前の文は次のようなものです。

おれたちはみな農民である
ずいぶん忙しく仕事もつらい
もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい
われらの古い師父たちの中にはそういう人も応々あった
近代科学の実証と
求道者たちの実験と
われらの直観の一致に於て
論じたい
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
とあります。「近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい」という前文の「求道者たちの実験」の目指しているものが「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という結論なのです。

求道者たちの浄土

これは末文に「われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である」という文にもあらわれています。すなわち、目指すのは世界平和ではなく、求道者たちの連携と目的意識の共有なのでしょう。
創造するべき理想郷は平和の波動に包まれた心の共同体、理想郷は私的幸福と公的幸福が調和し彼方に必ずあると信じるということでしょうか。
『農民芸術概論』「結論」には次のようにあります。
われらに要るものは
銀河を包む透明な意志
巨きな力と熱である
われらの前途は
輝きながら嶮峻である
嶮峻のその度ごとに四次芸術は巨大と深さとを加へる
詩人は苦痛をも享楽する
永久の未完成これ完成である
理解を了へば
われらは斯る論をも棄つる
畢竟ここには宮沢賢治一九二六年のその考があるのみである
銀河鉄道の夜の物語の大きなテーマ〝ほんたうのさいわい〟への求道の誓い。わたしたちの心は一見バラバラのようでも実は深いところでつながっている、そのことを感じる力が求道者たちの意思だというわけです。
その理想郷は日蓮教学の言葉をかりれば「常寂光土」なのだと思います。「常寂光土」は日蓮教学では。法華経に説かれる久遠の仏が常住する国土です。日蓮教学・天台の法華経理解ではお釈迦さまが、この娑婆世界で説かれた教えですから、この世界は実はすでに久遠の仏が常住している常寂光土というとらえ方をします。
賢治はこの世界はまさに常寂光土と気づき、その存在に呼応する精神で、宇宙を満たしていくことが、求道の方向性と考えていたと思います。それは同論の「農民芸術の綜合」に、
まづもろともに
かがやく宇宙の微塵となりて
無方の空にちらばらう
しかもわれらは各々感じ
各別各異に生きてゐる
とあるのは、まさにこのことを表していると考えます。

「常寂光土」の出典

しかし意外なことに、この「常寂光土」の語は法華経の本文にはありません。「常寂光土」は天台・唯識・摂論の各宗がたてる「理想の四土」のうち天台宗のかかげる四土の一つに掲げられています。
今回は銀河鉄道の物語の解説というより、仏教教義の解説みたいになってしまいましたが、この物語の重要テーマ〝ほんたうのさいわい〟にかかわることですので、我慢していただいて、とりあえず天台の四土についてだけ説明させていただきます。
それでは天台がたてる四土(四種の理想郷)を概説します。
【凡聖同居土】略して同居土ともいいいます。迷いの凡夫と仏法の覚りを得た聖人とが、ともに住む国土をいう。この国土の仏身は劣応身とされる。この娑婆が浄土であるということで同居の穢土ともあらわされます。
【方便有余土】方便土、有余土ともいい、声聞・縁覚の二乗が生まれ住む国土。すなわち方便の教えを修行して、煩悩の一部を断ずる小乗経の聖者が住む国土です。完全に無明を断ずることができないので「有余」〝まだ足りない〟とあるわけです。
【実報無障礙土】実報とは真実の仏道修行をすることで即座に功徳が現れることです。菩薩が安楽に住む浄土。
【常寂光土】本仏が住む本土です。出典は『観無量寿経疏』に「常寂光とは、常は即ち法身、寂は即ち解脱、光は即ち般若、是の三点、縦横・並別ならざるを、秘密蔵と名づく。諸仏如来の遊居するところの処は、真常究竟にして、極めて浄土と為す」です。〝常・寂・光の、常とは法身、寂とは解脱、光とは般若にあたるとし、それが時系列的・並列的ではなく円融している〟完全な浄土と示されています。日蓮聖人はこの「不縦・不横」を説くのは法華経だけであると述べています。「不縦」とは報身(宇宙の真理・真如)・法身(修行して成仏する姿)・応身(人々の前に現れる釈迦の姿)が同時に顕れる時間軸。「不横」とは報身・法身・応身の仏が同じ場所にいるという空間的な制約がないことをあらわしています。

寿量品の常住の仏

「常寂光土」がとびぬけてすごい浄土として解説されていることが分かります。そしてここで私が伝えたいのは浄土というものは「常寂光土」という場所を示すものではなく、ある境涯をあらわしている仮称であるということです。
そしてその浄土が法華経の教えの中にあるというとらえ方は、法華経如来寿量品にあります。「然るに善男子、我実に成仏してより已来無量無辺百千万億那由他劫なり」「衆生を度せんが為の故に 方便して涅槃を現ず。而も実には滅度せず 常に此に住して法を説く 我常に此に住すれども 諸の神通力を以て 顛倒の衆生をして 近しと雖も而も見えざらしむ」の文です。この世界が仏が見まもる「常寂光土」・霊鷲山なのだととらえる典拠です。

天台本覚思想を離れて

賢治が「永久の未完成これ完成である」と書いているように、〝ほんたうのさいわい〟は求道という、姿勢として表現されています。
賢治は、最澄が法華経を学ぶなかで陥った〝衆生のありのままの現実がそのまま悟りの現れであり、それゆえ、もはや悟りを求めて修行する必要はない〟という本覚思想、この世は寂光土なので、もはや彼岸に赴く努力は必要は無いという極論に陥いりませんでした。賢治は法華経から〝ほんたうのさいわい〟を求める姿を銀河鉄道の夜の物語に映したのでしょう。

旅の終わり

先号まで、二回にわたりジョバンニとカンパネルラの銀河鉄道の終盤のカンパネルラの言葉「あすこがほんとうの天上なんだ」の説明から、この物語のテーマ〝ほんたうのさいわい〟から常寂光土、天台本覚思想など、物語の進行とずいぶん離れてしまいました。
それでは物語に戻りましょう。
最初に一一七号で引用した部分をもう一度引いて、二人の旅の終わり部分の会話から見ていきましょう。
「あ、あすこ石炭袋だよ。そらの孔だよ。」カムパネルラが少しそっちを避けるようにしながら天の川のひととこを指さしました。ジョバンニはそっちを見てまるでぎくっとしてしまいました。天の川の一とこに大きなまっくらな孔がどほんとあいているのです。その底がどれほど深いかその奥に何があるかいくら眼をこすってのぞいてもなんにも見えずただ眼がしんしんと痛むのでした。ジョバンニが云いました。
「僕もうあんな大きな暗の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」
「ああきっと行くよ。ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集ってるねえ。あすこがほんとうの天上なんだ。あっあすこにいるのぼくのお母さんだよ。」カムパネルラは俄かに窓の遠くに見えるきれいな野原を指して叫びました。
この会話には、先号で説明した賢治の描く〝ほんたうのさいわい〟、常寂光土、本覚思想、すなわち、本来すでに覚っているという考え方に陥らず、〝求道こそ救済〟という姿勢が二人の会話にあらわされています。
また、この南十字の石炭袋と白鳥座(北十字)の石炭袋は繋がっていると考えられることは、前に述べました。

文圃堂『宮澤賢治全集』(全三巻)

二つの結末

ところで、今まで「銀河鉄道の夜」の解説をしてきたのですが、この物語の最終部分は二種類の展開があります。それは、この物語の賢治の原稿には「初期形一」「初期形二」「初期形三」と最終形である第四次稿です(『【新】校本宮澤賢治全集』による分類)。本誌の解説では最終形の第四次稿を採用してきました。現在ではこの設定の「銀河鉄道の夜」がほとんどで、初期形は見ることも希ですが、当初は文圃堂版の『宮澤賢治全集』第三巻』(童話編・昭和九年)に収録されていました。
この物語は、未定稿のまま賢治の死後発見されたものです。第四次稿昭和二年ごろの作と推定されます。
賢治没後約一年の出版です。文圃堂版『宮沢賢治全集』一巻は「春と修羅」の第一集から第三集を収録、第二巻未見です。
編集者は高村光太郎・宮澤清六・藤原嘉藤治・草野心平・横道利一など文芸界の大御所が名を連ねています。
文圃堂はこの出版後ほどなく破産し、破産世話人だった十字屋書店が紙型(活版を湿った厚紙にプレスして円形に曲げ鉛を流した印刷の型)を所有し、戦前の昭和十四年ごろから戦中の十九年ごろまでに『宮澤賢治全集』第一巻~五巻、六巻~別巻の七冊が出版されたといいます。
文圃堂版全集以来、長く読まれてきた初期形では「ブルカニロ博士」が登場します。長く読まれてきた刊本であり、この物語の読み解きには、その解説も必要ですが、「ブルカニロ博士」と、初期形については、あとで述べることにします。ひとまず、最終形の第四次稿を解説をしていくことにします。それでは時間軸とストーリーが合わさるところまで、一気に長文を引かせていただきます。

もとの丘の草の中

ジョバンニもそっちを見ましたけれどもそこはぼんやり白くけむっているばかりどうしてもカムパネルラが云ったやうに思はれませんでした。何とも云へずさびしい気がしてぼんやりそっちを見ていましたら向ふの河岸に二本の電信ばしらが丁度両方から腕を組んだやうに赤い腕木をつらねて立っていました。「カムパネルラ、僕たち一諸に行かうねえ。」ジョバンニが斯う云ひながらふりかへって見ましたらそのいままでカムパネルラの座ってゐた席にもうカムパネルラの形は見えず(ただ黒いびろうどばかりひかっていました)、ジョバンニはまるで鉄砲丸のやうに立ちあがりました。そして誰にも聞えないやうに窓の外へからだを乗り出して力いっぱいはげしく胸をうって叫びそれからもう咽喉いっぱい泣きだしました。もうそこらが一ぺんにまっくらになったやうに思ひました。

ジョバンニは眼をひらきました。もとの丘の草の中につかれてねむっていたのでした。胸は何だかおかしく熱り頬にはつめたい涙がながれていました。
ジョバンニはばねのやうにはね起きました。町はすっかりさっきの通りに下でたくさんの灯を綴ってはいましたがその光はなんだかさっきよりは熟したといふ風でした。そしてたったいま夢であるいた天の川もやっぱりさっきの通りに白くぼんやりかかり、まっ黒な南の地平線の上では殊にけむったやうになってその右には蠍座の赤い星がうつくしくきらめき、そらぜんたいの位置はそんなに変ってもいないやうでした。
ジョバンニは一さんに丘を走って下りました。まだ夕ごはんをたべないで待っているお母さんのことが胸いっぱいに思ひだされたのです。どんどん黒い松の林の中を通ってそれからほの白い牧場の柵をまはってさっきの入口から暗い牛舎の前へまた来ました。そこには誰かがいま帰ったらしくさっきなかった一つの車が何かの樽を二つ乗っけて置いてありました。
「今晩は」ジョバンニは叫びました。
「はい。」白い太いずぼんをはいた人がすぐ出て来て立ちました。
「何のご用ですか。」
「今日牛乳がぼくのところへ来なかったのですが」
「あ済みませんでした。」その人はすぐ奥へ行って一本の牛乳瓶をもって来てジョバンニに渡しながらまた云ひました。
「ほんたうに、済みませんでした。今日はひるすぎうっかりしてこうしの柵をあけて置いたもんですから大将早速親牛のところへ行って半分ばかり呑んでしまひましてね…」その人はわらひました。
「さうですか。ではいただいて行きます。」「ええ、どうも済みませんでした。」「いいえ。」ジョバンニはまだ熱い乳の瓶を両方のてのひらで、包むやうにもって牧場の柵を出ました。

牛乳屋の黒い門

話は、物語の始まりの近くの「家」に繋がります。引用の始め近くに、次の描写があります。
何とも云へずさびしい気がしてぼんやりそっちを見ていましたら向ふの河岸に二本の電信ばしらが丁度両方から腕を組んだやうに赤い腕木をつらねて立っていました。
この描写について、当初は、作品の中で諸宗教が引用されてきて、一度も無かったと思われる、日本神道、神社の朱の鳥居のようにも思われます。聖域への結界を示すものでしょうか。
しかし、そういえば、、ジョバンニが戻った〝黒い丘〟に登る前に母の牛乳をとりに行った牛乳屋(牧場)の描写には「牛乳屋の黒い門」という表現がありましたので、これは単に門が黒から赤に変化したということ〝だけ〟なのかも知れません。しかし、〝黒から赤〟、ここに何かまた、物語の鍵があるようにも思えます。
この描写について、読者の方から〈「二本の電信ばしら」は日蓮聖人が感得した本尊の中央の南無妙法蓮華経の両脇、虚空にかかる大宝塔に入り並んで坐す釈迦牟尼仏と多宝如来ではないか〉とご教示をいただきました。
再び紙数が尽きました。このことについては、また次号で考えてみたいと思います。

二本の電信柱

前号では「二本の電信柱」は何か、というところで、紙数が尽きました。
列車の乗客が南十字で降車して、ジョバンニとカンパネルラが二人になった時に「ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集ってるねえ。あすこがほんとうの天上なんだ」とカンパネルラが言います。ジョバンニはそちらの方角を見ますが「そこはぼんやり白くけむっているばかり」でどうしてもカムパネルラがいったように思われませんでした。「二本の電信柱」はこの後、川の対岸に見えます。今回はジョバンニがもとの丘の草の中で目覚める直前、いわば、二人の列車の旅の突然の終わりの部分まで、引用します。
何とも云えずさびしい気がしてぼんやりそっちを見ていましたら向うの河岸に二本の電信ばしらが丁度両方から腕を組んだように赤い腕木をつらねて立っていました。「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ」ジョバンニがこう云いながらふりかえって見ましたらそのいままでカムパネルラの座っていた席にもうカムパネルラの形は見えずただ黒いびろうどばかりひかっていました。ジョバンニはまるで鉄砲丸のように立ちあがりました。そして誰にも聞えないように窓の外へからだを乗り出して力いっぱいはげしく胸をうって叫びそれからもう咽喉いっぱい泣きだしました。もうそこらが一ぺんにまっくらになったように思いました。
この「二本の電信柱」について、多くは賢治の別の童話『月夜の電信柱』との関係を考える方が多いようです。その一方で、日蓮聖人の曼荼羅と思われる切符を持って、法華経や東西文明調和の姿を巡る鉄道列車に乗り、南十字を過ぎてから、現れるこの「二本の電信柱」は〝曼荼羅の中央の南無妙法蓮華経の最上部の両脇に感得されている、虚空に懸かる多宝塔の中に並んで坐す釈迦牟尼仏と多宝如来ではないか〟と読者の方から、ご教示をいただきました。確かに「向うの河岸」は河の対岸であろうとおもいますから、仏教の覚りの目的地の岸をあらわす〝彼岸〟を思いおこさせます。(彼岸は実は迷いの大海のはるか向こうの別天地の岸なのですが、日本では三途の川の渡イメージと重なって、川のイメージが濃いですね)ジョバンニがその電信柱を見た直後にカムパネルラは姿が消えてその席には〝びろうどばかりひかっていた〟というわけですから、ただの電信柱ではないでしょう。

保坂の電信柱の絵

なぜ電信柱は二本なのか

まず何故「赤い腕木をつらねた二本の電信柱」なのでしょうか。このことについて、岩手県北上市生まれの俳優・演出家の、しままなぶ氏は次のように書いています。
銀河鉄道の夜で、石炭袋=空の孔を指し示した後ふと姿を消してしまうカムパネルラ。ジョバンニが、向かいの席にカムパネルラがいないことに気がつく直前に銀河の空に目にするのが、赤い腕木をつらねた二本の電信柱でした。この二本の電信柱は、賢治と保坂嘉内ふたりの友情の象徴でした。賢治と嘉内は各々の歌の中に「電信柱」を多く詠み合いました。赤い腕木をつらねた二本の電信柱を、肩を組み二人そろって真っ直ぐに高く空へと伸びてゆく我と友に重ねて見上げたのでしょうか。理想に向かって共に進んで行こうと誓いあった、希望に満ちた二人。あの電信柱は二本でなくてはならないのです。

月夜の電信柱

次に帝京平成大学の石井竹夫氏は〈宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場する赤い腕木の電信柱〉の稿で、『月夜の電信柱』との関係を考察しています。はじめに『月夜の電信柱』から石井氏が引用した、賢治の原作を引用します。
そのときすうっと霧がはれかゝりました。どこかへ行く街道らしく小さな電燈の一列についた通りがありました。それはしばらく線路に沿って進んでゐました。そして二人がそのあかしの前を通って行くときはその小さな豆いろの火はちゃうど挨拶でもするやうにぽかっと消え二人が過ぎて行くときまた点くのでした。
『月夜の電信柱』では種々の機能を持った「電柱」が隊列をなした兵隊となって軍歌を歌いながら登場します。〝六本うで木の竜騎兵〟の後ろには〝三本うで木のまっ赤なエボレット(階級章)をつけた兵隊もあるいている〟という描写があります。石井氏は同論で賢治の『春と修羅 第二集』の中の詩「発電所」を引用していますので次に掲げます。

鉛直フズリナ配電盤に
交通地図の模型をつくり
大トランスの六つから
三万ボルトのけいれんを
塔の初号に連結すれば
幾列の清冽な電燈は
青じろい風や川をわたり
まっ黒な工場の夜の屋根から
赤い傘、火花の雲を噴きあげる

 この詩を引用して、石井氏は次のように論じています。引用させていただきます。
岩手県遠野市のJR釜石線岩根橋駅の裏手にある水力発電所とそこから電力を供給してもらって操業していた(川向こうの)カーバイド工場を歌ったものと言われている。カーバイドからは「近代農業」の発展に貢献した窒素肥料が作られる。カーバイドは水と反応するとアセチレンになりアセチレンランプとして照明用に使われた。この詩にでてくる「塔の初号」とは発電所からの電力を最初に送電することを担っている「鉄塔」のことである。賢治の生きた時代では、高圧送電線の支持物が木柱から耐久性のある「鉄塔」に代わっていくときでもあった。
 石井論はこのあとに《銀河鉄道の夜の〝腕を組んだように赤い腕木をつらねて立っている二本の電信柱〟は、〈みんなのほんとうの幸〉をどこまでも一緒に求めていくはずであった死んだ妹のトシや生き別れた親友の保阪嘉内へ思いを馳せながら、その果たせなかった願いを、近代科学の智惠をも使って高圧送電線用鉄柱あるいは、それの付属設備かもしれない木製の〈腕を組んだように赤い腕木をつらねた〉電信柱から発信している……(要旨)と結んでます。

二仏並座

釈迦・多宝の二仏

一方、銀河鉄道の物語全体が、法華経の理想世界と現在・過去・未来の世界の文化・文明・科学・哲学・宗教が融合する日蓮聖人が感得された大曼荼羅御本尊の中にあり、二本の電信柱は、曼荼羅の智慧と救いの大光明を宇宙全体に放っている南無妙法蓮華経のお題目(虚空に懸かる大宝塔)左右の釈迦牟尼仏と多宝如来ではないかという、前号から考えてきた読者からの御教示があります。
 列車に突然乗ることになったジョバンニのポケットにいつの間にか入っていた切符の描写は、日蓮聖人の大曼荼羅御本尊を信徒向けに開眼・奉安してもらい、至心に唱題・法華経読誦を勧めていた、賢治も授与された家庭用の御本尊でしょう。
 さらに言えば、それは国柱会の田中智学が日蓮聖人佐渡始顕の曼荼羅の姿を求め・顕し、会員に授けた御曼荼羅。カンパネルラは、虚空に懸かる大宝塔をめぐる列車に乗り、大曼荼羅の世界(常寂光土)に至った…。そういう見方も出来るのです。

天気輪の柱

ここで、当初からの謎「天気輪の柱」の姿が見えてきたように感じます。しかし、また、紙数が尽きました。次号で考えましょう。

天気輪の柱が三角標(星々)に

前号では、カンパネルラが消える直前にジョバンニが車窓から見た対岸の〝二本の赤い腕木を連ねたように立っている電信柱〟について考え、毎度の如く、「天気輪の柱の姿が見えてきたように感じます、しかし、また、紙数が尽きました」で終わりました。
さてこの「天気輪の柱」については、この連載でも今までに第二回から、解くべきこととして考えていました。今回は風邪気味ゆえ、過去の連載の要旨からはじめます。
まず、「五、天気輪の柱」を引用しました。
そのまっ黒な、松や楢の林を越えると、俄かにがらんと空がひらけて、天の川がしらしらと南から北へ亘っているのが見え、また頂の、天気輪の柱も見わけられたのでした。〔略〕 ジョバンニは、頂の天気輪の柱の下に来て、どかどかするからだを、つめたい草に投げました
次に「六、銀河ステーション」を引用しました。
そしてジョバンニはすぐうしろの天気輪の柱がいつかぼんやりした三角標の形になって、しばらく蛍のように、ぺかぺか消えたりともったりしているのを見ました。それはだんだんはっきりして、とうとうりんとうごかないようになり、濃い鋼青のそらの野原にたちました。いま新らしく灼いたばかりの青い鋼の板のような、そらの野原に、まっすぐにすきっと立ったのです。
このようにジョバンニは「天気輪の柱」の丘で〝風が遠くで鳴り、草もしずかにそよいでいて、遠く黒くひろがった野原を見ていると汽車の音が遠く聞え、旅人たちが、りんごをむいたり、わらったりしている〟と思いを馳せます。そして、何だか悲しくなって夜空を見上げていると、不思議な気持ちになり、天気輪の柱は不思議な変形をして、銀河鉄道に乗っていた…というわけです。

第三次稿のブルカニロ博士

天気輪の柱は、物語の最後にまた登場します。現在、一般に読まれているのは「第四次稿」で、、それ以前の第三次稿では、このジョバンニの物語の中での体験を観察し、見守っていたというブルカニロ博士という人物が天気輪の柱の裏から登場し、物語の謎解きめいたことをします。第三次稿の最終部分「九、ジョバンニの切符」の該当部分です。
「あゝではさよなら。これはさっきの切符です」。博士は小さく折った緑いろの紙をジョバンニのポケットに入れました。そしてもうそのかたちは天気輪の柱の向ふに見えなくなってゐました。ジョバンニはまっすぐに走って丘をおりました。そしてポケットが大へん重くカチカチ鳴るのに気がつきました。林の中でとまってそれをしらべて見ましたらあの緑いろのさっき夢の中で見たあやしい天の切符の中に大きな二枚の金貨が包んでありました。
この〝柱〟の正体について、宗教的要素か、天文現象など自然現象に結びつける論として「後生車」「太陽柱」説、読者からお教えいただいた「法華経の多宝塔」説を考えました。
その多宝塔は、虚空(観心相)に出現し宝塔の扉が開いて多宝如来が釈迦牟尼仏の説法を讃えます。二仏は塔の中で並んで座ります。「二本の電信柱」はこの二仏という教示は、大曼荼羅本尊、すなわちジョバンニの切符の上部、お題目の両脇に感得されいる二仏の名の相のことでしょう。すなわち、二人は旅の目的地に近づいたということ、を示しているということでしょう。

天気輪の柱の建つ丘

『文語詩稿一百編』の「病技師(二)」にこの「天気輪」の語があります。五輪峠を訪れた時の歌です。
あえぎてくれば丘のひら地平をのぞむ天気輪
五輪峠は江戸時代は南部藩と伊達藩の関所が置かれていたところで、江刺市・遠野市の境にある峠で、賢治の詩碑が建てられています。五輪峠の詩も再び引いてみましょう。
五輪峠と名付けしは/地輪水輪また火風/巌のむらと雪の松/峠五つの故ならず/ひかりうずまく黒の雲/ほそぼそめぐる風のみち/苔むす塔のかなたにて/大野青々みぞれしぬ
この詩に添えて、次のような賢治のメモがあります。
あゝこゝは五輪の塔があるために五輪峠といふんだな。ぼくはまた、峠がみんなで五っつあって、地輪峠水輪峠空輪峠といふのだらうと、たったいままで思ってゐた。地図ももたずに来たからな
一方、天気輪の柱に建つ丘の宗教性については、その丘に咲く釣鐘草(カンパニュラ)について『春と修羅』第二集に次の詩があります。
白装束の人々がなだらかな岩道を登ってくる。黙々と息を切らしながら登ってくる 旱の今年の苦労を終えて、蚕の夏場の仕事も終えて、お盆の今、拝むためにこの早池峰に登ってくる。釣鐘草、いわかがみ、こけもも、うめばちさう、濃い青のはい松。風に揺れる花々と岩の間に信仰の人々が登ってくる。
三角標とカーバイドの灯り
前号では、〝二本の赤い腕木を連ねたように立っている電信柱〟という表現が、どうしても神社の鳥居を想起させるとしました。そして、次に帝京平成大学の石井竹夫氏の「天気輪の柱鉄塔説」説を紹介しました。
この詩にでてくる「塔の初号」とは発電所からの電力を最初に送電することを担っている「鉄塔」のことである。賢治の生きた時代では、高圧送電線の支持物が木柱から耐久性のある「鉄塔」に代わっていくときでもあった。
そして石井氏の説を
《二本の電信柱は、〈みんなのほんとうの幸〉をどこまでも一緒に求めていくはずであった死んだ妹のトシや生き別れた親友の保阪嘉内へ思いを馳せながら、その果たせなかった願いを、近代科学の智惠をも使って高圧送電線用鉄柱あるいは、それの付属設備かもしれない木製の〈腕を組んだように赤い腕木をつらねた〉電信柱から発信している……》
としていると要旨を結びました。「二本の電信柱」は岩手県遠野市のJR釜石線岩根橋駅の裏手にある水力発電所から電力を供給して操業していた(川向こうの)カーバイド工場への送電設備という指摘でした。
このカーバイドからは「近代農業」の発展に貢献した窒素肥料が作られます。そしてカーバイドはオレンジ色に燃焼し、測量用の三角標の光として用いられ、同時にこ道の物語では線路のつながりを示した星々(三角標)の明かりでもあります。
当時、日本では正確な地図を作るため、全国的に山頂部などの高所で三角測量が行わました。三角点の上には測量をするため、高い櫓が作られ、これが三角標です。
測量した三角点には星のように等級があります。また、三角標を観測する機器の夜間集光照明として用いる回光器に使われたカーバイトアセチレンガス灯は、当時、灯台の照明や陸軍の通信にも使われ、やわらかい赤色に燃え、オレンジ(朱)の揺らめくのです。
そういえば賢治が晩年勤務した東北砕石工場もこの窒素肥料を製造販売する会社でした。賢治は、自分の〝旅の終わり〟をこの物語に重ねたのではないかとさえ思えます。
〝二本の赤い腕木を連ねたように立っている電信柱〟は、どうしても村落のどこにでもある神社の朱の鳥居に似ています。物語では今まで登場しなかった神道、あるいは村落の原風景としての鳥居を思わせます。したがって、「天気輪の柱」は高圧送電線の「塔の初号」でしょう。
そして二本の電信柱は送電を担う大型電柱と旅の終点を示す大曼荼羅の上部の釈迦・多宝の二仏。また、〈みんなのほんとうの幸〉を一緒に求めてきた妹のトシや親友の保阪嘉内という同朋の姿、こうした意味を含んだなつかしい〝鳥居のようなモノ〟と、ひとまず、考えておきましょう。
さて、天気輪の柱から考察して、解かなければ先に進めない命題が出てまいりました。ブロカニロ博士、その名前は、何か。第三次稿まであり、ほぼ完成形の第四次稿では無くなったブロカニロ博士。ジョバンニの旅の理由と人生の意義を説明する重要人物なのです。このことは次号で。

ジョバンニの切符

前号は、筆者が五月八日に「くも膜下出血」で倒れ、三ヵ月入院生活でやむを得ず休載にいたしました。確か「天気輪の柱」や二本の電信柱について、
「天気輪の柱」は高圧送電線の「塔の初号」でしょう。
そして二本の電信柱は送電を担う大型電柱と旅の終点を示す大曼荼羅の上部の釈迦・多宝の二仏。
として、賢治の「銀河鉄道の夜」の最終部分に二つの結末があること、特に現在、一般に読まれているのは「第四次稿」で、そこにはなく、それ以前の第三次稿では、このジョバンニの物語の中での体験を観察し、見守っていたというブルカニロ博士という人物が天気輪の柱の裏から登場し、物語の謎解きめいたことをする場面があること。そのブルカニロ博士の名前についても考察すべきとして稿を閉じました。
それでは普段あまり読まない第三次稿のもう一つの「ジョバンニの切符」の項の要旨を引用します。
ジョバンニが夢から覚めたとたん、「ブルカニロ博士」なる人物が柱の裏から現れ、銀河鉄道の夢は「遠くから私の考えを人に伝える実験」だったと明かします。そして、夢に出てきたみどりの切符と二枚の金貨をジョバンニに与える。するとあのセロのような声も黒い帽子の男も、さらに鳥捕りも灯台守もみんな博士の分身ということになる。物語は空想の世界でそれ自身、自立して存在していないことになる。
「あゝではさよなら。これはさっきの切符です。」博士は小さく折った緑いろの紙をジョバンニのポケットに入れました。そしてもうそのかたちは天気輪の柱の向ふに見えなくなってゐました。ジョバンニはまっすぐに走って丘をおりました。そしてポケットが大へん重くカチカチ鳴るのに気がつきました。林の中でとまってそれをしらべて見ましたらあの緑いろのさっき夢の中で見たあやしい天の切符の中に大きな二枚の金貨が包んでありました。

「ブルカニロ博士」とは

さて、この連載の十二回目の時に、「バルドラの野原」のバルドラの語の由来について考えた結果、国会図書館の雑誌論文目録に「『銀河鉄道の夜』の固有名詞の源泉─バルドラ、ブルカニロ」(定方 晟/東海大学名誉教授・専攻は仏教学・インド学『東方』25号)があるのを見つけました。神田明神参道にある東方学院をたずね、該当の号の部分をコピーさせて戴きました。しかし筆者の乱雑な机まわりの紙に埋もれ、今回は見つけられずに、要旨のみを書きます。
〈バルドラはカラコルム山中の氷河の名バルトロ(Baltro)をもじったもの〉とあり、賢治も大いに関心を寄せていたであろうヘディンの書に紹介されているから賢治の耳目に接し、魅力あるイメージを提供しえた、という。ヘディン探検隊の西域探検(或は陸軍軍人日野強少佐『伊犂紀行』もある)が明治中期という、時代の符合や西域の仏教文化に賢治が関心を寄せていたことなど、妥当と思われる点もある。〉ということでした。
しかし、筆者は、夏の夜空で印象的なさそり座のイメージや物語との密接なイメージの連鎖が希薄、賢治が『伊犂紀行』にも記載の無いバルトロ氷河を知り得たか、高山にもサソリは生息するが、氷河やイタチなど、違和感があるとして、この連載の考察では、「バルナ族とドラビダ族の争い、すなわち「インドラと阿修羅」の終わらない闘いが繰り広げられている「娑婆」世界、即ちこの世が「バルドラの野原」であろうとしました。
定方氏は同論文で、「ブルカニロ博士」の名前についても考察されていて、「ブルカニロ」の語源の源泉は、ブッダ・世尊(bhagavat)にあるのではないか、また「仏教学」の英訳に関連した単語・英語表現のBuddhologyではないかとされていたと記憶しています。
賢治は死の直前まで『銀河鉄道の夜』の原稿を推敲していたため決定稿がありません。ですから様々な『銀河鉄道の夜』が存在し、例えば青空文庫の角川版と新潮版でも細部が異なっています。
そして初期形は現在読まれている最終形とは全く構成が違います。
カムパネルラが銀河鉄道から消えた直後、彼のいた座席に現れたのが黒い帽子をかぶって、大きな一冊の本を持ったブルカニロ博士。実は初期形第三稿まで、ジョバンニの銀河を巡る旅はこの博士の催眠術による『心理実験』という設定でした。
彼はセロ(チェロ)のように響く低い声で、意識の外側からジョバンにたびたび話しかけます。夢の中での彼は、指一本動かすだけでジョバンニに幻想を見せることができるイリュージョニストです。現実の彼は、ジョバンニが夢の中で言っていたことを全て手帳に記録していました。
現在形の「銀河鉄道の夜」の結末からはずいぶんかけ離れています。
それは「ブルカニロ」という名前に由来していると思うのです。
今一般的に読まれている第四稿(最終形)では、ブルカニロ博士の存在は跡形もなく消滅しています。賢治は何故このような大胆な改稿を行ったのか。例えば小説としての形を整えるため等と考えられたりもするのですが、ここでは「ジョバンニが選ばれた存在であってはならないから」説をとりあげます。賢治は『銀河鉄道の夜』を自分の信仰を誰かに伝えるための物語にしたかった。博士を消すことで、ジョバンニは被験者として選ばれた特別な英雄ではなくなります。そうすれば彼が銀河鉄道の旅の中で体験したことや決意が「私たちみんなのもの」となります。誰もがみんなジョバンニでありカムパネルラなんだよ、他の誰かではなくキミ自身の話なんだよ、というわけです。

「ブロカニロ」の語と消滅の理由考

この物語は最初から、イギリス産業革命をもたらした蒸気機関・機関車が描かれています。実は、動力は最終稿ではアセチレンガス・高圧電線などの電動機関になっていますが、近代文明の可能性と夢に憧れた賢治の世界が描かれています。ブルカニロという名はBuddhology(仏教学)とかラテン語・Pax Britannica (パークス・ブリタンニカ=イギリスによる平和)を意味するように思い始めました。
イギリス近代文明の挫折と日本の大陸への夢、東洋に植民地を作る欧米列強との闘いとアジア主義が、賢治に「ブルカニロ博士」の登場自体を物語から消させた。それは、賢治がこの物語を創作した日本の国際情勢とも重なります。日蓮主義の台頭した時代の終焉と、その後の米英連合国との総力戦と敗北、そして米軍の占領政策、現在も他の国で繰り広げられている民族紛争・武力衝突、そうしたものを見ないふりをし続けて維持している、血塗られた経済的繁栄の上にある現在の日本の平和。そんな不正義の平和に慣れた筆者には、当時の「正義の為の戦争」を見て見ぬふりし続けるしかない現代の若者の視点でこの結末を考える必要を感じはじめました。
そんな中で書棚に 『近代日本思想の肖像』「ブロカニロ博士の消滅—賢治・大乗仏教・ファシズム」大澤真幸(講談社学術文庫)を見つけました。同書二〇七頁から抄録引用します。
鉄道が日本において確立するのは、明治二十年代のことだ。この時期に相次いで、全国規模の鉄道網が開通しているからだ(明治二十二年に東海道本線が、二十四年に東北本線が、二十六年に信越本線がそれぞれ開通)。これは、宮沢賢治が生まれた時期にほぼ対応している。詳しくは論拠を示さないが、日本人の一般が自らを「日本人」として同定するようになるのは、実際に、この時期である。明治二十一年に書かれた中江兆民の次の文章は、ネーションと鉄道との繫がりをよく示している。近日鉄道起業の盛んに流行して全国到る処鉄道噺ならざる莫し、結構なる事なり。
 今号は資料を良く読んでいない、次号に時代の変遷と賢治は何故このような大胆な改稿を行ったのか、を考えてみたいと思います。

賢治が妹の魂を求めてさまよった
栄浜付近を走る狭軌鉄道

「ブルカニロ博士」の消滅

前号では国会図書館の雑誌論文目録に「『銀河鉄道の夜』の固有名詞の源泉─バルドラ、ブルカニロ」(定方 晟/東海大学名誉教授・専攻は仏教学・インド学『東方』25号)があるのを見つけ、定方先生は「ブルカニロ博士」の名前についても考察され、「ブルカニロ」の語源の源泉は、ブッダ・世尊(bhagavat)にあるのではないか、また「仏教学」の英訳に関連した単語・英語表現のBuddhologyではないかとされていたと記憶しています。

賢治は死の直前まで『銀河鉄道の夜』の原稿を推敲していたため決定稿がありません。ですから様々な『銀河鉄道の夜』が存在し、例えば青空文庫の角川版と新潮版でも細部が異なっています。、実際、日本人の一般が自らを「日本人」として同定するようになるのは、実際に、鉄道網の発展と関連する時期である。九州と北海道が同じ日本として認識するのがごく普通になるのは、鉄道によって移動手段・時間が短縮された背景があるのは容易に想像し得ます。
カムパネルラが銀河鉄道から消えた直後、彼のいた座席に現れたのが黒い帽子をかぶって、大きな一冊の本を持ったブルカニロ博士。実は初期形第三稿まで、ジョバンニの銀河を巡る旅はこの博士の催眠術による『心理実験』という設定でした。そして最終の第四次稿ではすっかり「ブルカニロ博士」に関する描写がなくなり第四稿(最終形)では、ブルカニロ博士の存在は跡形もなく消滅しています。賢治は何故このような大胆な改稿を行ったのか。
銀河鉄道は規模や土地柄、「岩手軽便鉄道というイメージが一般的ですが、岩手軽便鉄道は、後のJR東日本釜石線に相当する路線で花巻から太平洋岸の釜石までを結ぶほぼ直線で短い列車です。
物語のような北と南を結ぶ高低差に富んだ路線ではありません。銀河鉄道は「オホーツク挽歌」に登場するような前年一一月に亡くなった妹トシを探し求め、できることならば彼女との再会を目指した旅かも知れません。大正十二年八月、賢治は豊原(現在のスタロドゥブスコエ)から汽車で栄浜へゆく。この砂浜でトシとの交信を求め、期待して過ごす状況は「オホーツク挽歌」に描かれています。
「オホーツク挽歌」「樺太鉄道」、賢治は妹トシの死後、汽車でサガレンへ向かった。日本最北端のサハリン(樺太)。賢治ははるばるやってきた樺太に、妹トシを探したのです。
賢治の夜空の旅は、法華経の教えの科学的実験証明から、最愛の妹トシとの別れと旅の思い出に満ちた旅に変わった。函館に向かう途中、内浦湾(噴火湾)沿いを走ったときに書いた詩が連作「オホーツク挽歌」の最後の作品「噴火湾」

稚いんどうの澱粉や緑金が
どこから来てこんなに照らすのか
(車室は軋みわたくしはつかれて睡ってゐる)
とし子は大きく眼をあいて烈しい薔薇いろの火に燃されながら
(あの七月の高い熱……)
鳥が棲み空気の水のやうな林のことを考へてみた
(かんがへてゐたのか
いまかんがへてゐるのか)

ここに登場するのは、亡くなる前の七月に高熱を出したときのトシだが、「(かんがへてゐたのか/いまかんがへてゐるのか)」とあるように、生前のトシと「いま」のトシ(=死者となったトシ)が二重写しになっている。
このように「ブルカニロ博士」の実験は賢治の夢、現実の妹の死、つまりジョバンニとカンパネルラの列車での永遠の別れになった。
「青森挽歌」「宗谷挽歌」「オホーツク挽歌」これらの挽歌は全篇が問いだった。なぜトシは死なねばならなかったのか。それは自分のせいなのか。いまどこにいるのか。なぜ交信がかなわないのか。どうすれば救うことができるのか。それがわからないもどかしさ。
賢治がサハリンに旅した目的は、表向きは農学校の教え子の就職斡旋のためということでしたが、鈴木健司氏は「《亡妹とし子との通信》という隠された目的のあったことも確かなことだ」(『宮沢賢治 幻想空間の構造』p.175)と記しておられます。
つまり「ブルカニロ博士」の実験、法華経の教えの正しさ、を立証する実験が、オホーツク行という「トシとの交信」という「実験」に変更され、父の不在を、「ブルカニロ博士」の消滅と同時に追加された、午後の授業やカンパネルラの父の冷静な発言が補ったのかもしれません。
北方のどこかに、「異空間への接続ステーション」があって、死ぬことなく「死後の世界」に行ける可能性があるかもしれません。実際、「ひかりの素足」でも「銀河鉄道の夜」でも、主人公は大切な人とともに死後の世界へ往って、また還ってきています。しばしば異界と「交信」し、異空間の実在を信じていた賢治にとっては、これはそんなに無茶な話ではなかったろうと思うのです。 少なくとも、「ある種の事を行えば、それに応じた結果が期待される」という意味において、この旅は賢治の意識の中で、宗教的には一つの「儀式」と言えるものだったでしょうし、自然科学的には一つの「実験」と言えるものだったのではないかと、思うのです。
このように「ブルカニロ博士」の消滅という大幅な改稿には諸説がありますが法華経の教えの正しさの科学的実験という発想は、法華経による諸宗教の融合を説いた日蓮主義者の優秀な学者たちによっても〝実験〟の試みが期待されていたのかも知れません。

タイタニック号遭難の記事
ニューヨークタイムズ

タイタニック遭難

タイタニックから来た人々

この連載ではこの「ブルカニロ博士の消滅という大幅な改稿」の考察で、一応辿り尽くしたと思うのですが、最後に、「銀河鉄道の夜」という物語がキリスト教(主にプロテスタントのバプテスト派)の描写に重なるという考察がありますので、次項では、タイタニックから〝戻った〟家庭教師と姉・妹はだれだったのか、について、ふれてみたいと思います。
タイタニックから列車に乗った一行は南十字の駅の讃美歌の中に「ホンタウのさいわい」を信じ、入っていきます。
それらの人々はキリスト教の教えに「ホンタウのさいわい」を見いだしたひとびとです。それは東北に於けるキリスト教の宣教と満州事変の勃発に端を発する欧米列強との戦争、イギリスの植民地支配、アヘン戦争を含めた、仏陀の聖地であるガンジス川流域を広大な芥子畑に替え、大英帝国の海軍の費用にあてていたという東洋支配、イギリス文明への失望の側面があるかもしれません。しかし本稿は星座とそれをめぐる文明のイメージを考えるもので、文明批評は本来のテーマから外れますので、ここで止めておきましょう。
時々、日蓮聖人の「一天四海皆帰妙法」は日本の世界征服の意図なのかという質問を外国の方にされます。ではキリスト教の宣敬と世界の植民地化という行為は何なのかとも考えてしまいますが、それもそういう時代であった、戦争の時代だったということに留めておきましょう。 各国の代理戦争の上に成り立っている現代日本の技術文化もそうした一群と反省すべきものがあります。

サハリンで姿を消す
日本由来の狭軌鉄道

樺太鉄道

カムパネルラが列車から消えた直後、彼のいた座席に現れたのが黒い帽子をかぶって、大きな一冊の本を持ったブルカニロ博士。実は初期形第三稿まで、ジョバンニの銀河を巡る旅はこの博士の催眠術による『心理実験』という設定でした。そして最終の第四次稿ではすっかり「ブルカニロ博士」に関する描写がなくなり第四稿(最終形)では、ブルカニロ博士の存在は跡形もなく消滅しています。前号では、賢治は何故このような大胆な改稿を行ったのかについて述べました。

そして、銀河鉄道は規模や土地柄、「岩手軽便鉄道]というイメージが一般的ですが、岩手軽便鉄道は、後のJR東日本釜石線に相当すると考えがちですが、JR東日本釜石線は物語のような北と南を結ぶ高低差に富んだ路線ではありません。花巻から北海道の樺太付近まで旅する描写が無いので、確定的とは言えませんが、樺太からさらに豊原(現在のスタロドゥプスコエ)に向かう「樺太鉄道」だったのではないかと考えました。スタロドゥプスコエはユジノサハリンスクから北に約五十キロのオホーツク海沿いの村。日本統治時代は栄浜と言われていた町です。栄浜の砂浜でトシの魂との交信を求め、期待して過ごす状況は「オホーツク挽歌」に描かれています。
このように「ブルカニロ博士」の実験は賢治の夢、現実の妹の死、つまりジョバンニとカンパネルラの列車での永遠の別れになり、このように「ブルカニロ博士」の指示は賢治の夢、現実の妹の死、つまり博士の記述はなくなったと考えられます。

タイタニックから来た人々

タイタニック号は一九一二年四月一四日の夜から四月一五日の朝にかけて、イギリス・サウサンプトンからアメリカ合衆国・ニューヨーク行きの航海中の四日目に、北大西洋で起きた海難事故です。当時世界最大の客船であったタイタニックは、一九一二年四月一四日の二三時四十分(事故現場時間)に氷山に衝突した時には二千二百二十四人を乗せていました。事故発生から二時間四十分後の翌四月十五日の二時二十分に沈没し、一千五百十三人が亡くなりました。これは当時、海難事故の最大死者数であったので日本の新聞でも大きく報道されました。また数少ない生存者の証言から、タイタニック号が氷山に衝突して沈み始めた後、ウエストハートリーと彼のバンドは、乗客たちが落ち着いて救命艇に誘導されるようにと、ラグタイムの曲目を演奏していて多数の生存者の証言によると、彼らは最後の最後まで演奏を続けていたといいます。ハートリーもバンドのメンバーも生き残ることはできませんでしたが、彼らの名は後世に残ることとなりました。最期に彼らが演奏した曲は不明ですが讃美歌の三二十番、『主よ御許に近づかん』だったと一般に思われています。
こうした北の海の海難事故で命を失った三人が銀河鉄道に乗り込んで、南十字星の停車場で讃美歌に送られて「ここが本当の天上」だと、列車を降り光輝く南十字の十字架に皆向かって行きます。
銀河鉄道は北十字の白鳥座から南十字星への旅ですから、北から南への路線です。もしかすると栄浜の浜辺で妹トシの魂と交信出来ずに、樺太鉄道に乗り、南に戻る旅だったのかも知れないとも考えられます。このことは銀河鉄道の夜の物語の解釈全体にも関係しますので、いずれ資料を再確認してみたいと思います。これは法華経の常寂光土の教え「本統の天上はこの世で、自分たちの行いでこの世を浄土にする」という教えと重なります。ジョバンニとカンパネルラは、ここは「本統」の天上ではないと列車に残ります。トシもこうして列車に残ったのだろうと。
物語がキリスト教(主にプロテスタントのバプテスト派)の描写に重なるという考察があります。銀河鉄道に乗り込んできた北の海の海難事故で命を失った三人は明らかにキリスト教徒です。それでは、賢治の周囲にキリスト教徒の友人がいたのでしょうか。

クリスチャンの準会員

羅須地人協会時代のことを研究しており複数の著作を出している花巻の羅須地人協会近くにお住まいの鈴木守氏は、以前から賢治も淡い思慕をよせていて、賢治の賢人化にともなって都合上「悪女」といわれた高瀬露さんの定説を崩し、高瀬露さんの名誉と本当の賢治像を考察している著作の中から平成三十年に発行された『本統の賢治と本当の露』に興味深い記述がありますので、引用させて戴きます。鈴木さんの著作は本当に興味深く複数ありますので、興味がある方は、〒〇二八-三六二一 岩手県紫波郡矢巾広美宮十-五一三-一九 (有)ツーワンライフ 電話〇一九-六八一-八一二一までお問い合わせ下さい。
この著書で鈴木さんは以下の森荘己池さんの「宮澤賢治の肖像」(津軽書房)で弟・清六さんの談話を記述を引いていますので、引用させて戴きます。
櫻の地人協會の會員といふ程ではではないが準會員といふ所位に内田康子さんとういふ、ただ一人の女性がありました。内田さんは、村の小学校の先生でしたが、その小学校へ賢治さんが講演に行ったのが縁となつて、だんだん出入りするやうになつたのです。来れば、どこの女性でもするやうに、その邊を掃除したり汚れ物を片付けたりしてくれるので、賢治さんも、これは便利と有難がって、「この頃は美しい會員が来て、いろいろ片付けてくれるのでとても助かるよ。」と集つてくる男の人達にいひました。白系ロシア人のパン屋が、花巻にきたことがあります。…(著者略)…兄の所へいっしょにゆきました。兄はそのとき、二階にいました。…(著者略)…二階には先客がひとりおりました。その先客は、T(高瀬)さんという婦人会の客でした。そこで四人で、レコードを聞きました。…(著者略)…レコード終わると、Tさんがオルガンをひいて、ロシア人はハミングで賛美歌をうたいました。メロディーとオルガンがよく合うその不思議な調べを兄と私は、じっと聞いていました。(同書二三九頁)
そして、先ほど鈴木さんが、名誉回復して本統の賢治を知ってもらいたいという高瀬露さんもクリスチャンであったことを(雑賀信行著『宮澤賢治とクリスチャン花巻編』(雑賀編集工房)一四三頁~)から引いています
そしてもう一つ大事なことがあり、露は十九歳の時に洗礼を受け、遠野に嫁ぐまでの十一年間は花巻バブテスト教会に通い、結婚相手は神職であったのだが、夫が亡くなって後の昭和二十六年に遠野カトリック教会で洗礼を受け直し五十年の長きにわたって信仰生涯を歩み通したクリスチャンであったという。
このように、羅須地人協会にはクリスチャンの人々も出入りしていました。そして高瀬露さんにまつわる興味深い「ライスカレー事件」について鈴木さんは『イーハートヴォ創刊号』につぎのように述べています。二つある証言の一つを引用させて戴きます。

オリエンタルカレーの宣伝車

「ライスカレー事件」

いわゆる「ライスカレー事件」はどうであったのだろうか、このことに関しては、高橋慶吾のつぎのような、二通りの証言が残っているから、そちらを先の見てみる。まず「賢治先生」という追憶では、或る時、先生が二階で御勉強中訪ねてきてお掃除をしたり、台所をあちこち探してライスカレーを料理したのです。恰度そこに肥料設計の依頼に数人の百姓たちが来て、料理や家事のことをしているその女の人をみてびっくりしたのでしたが、先生は如何したらよいじゃ困ってしまはれ、そのままライスカレーをその百姓たちに御馳走し、御自分は「食べる資格がない」と言つて頑として食べられずそのまま二階に上がつてしまはれたのです。その女のひとは「私が折角心魂をこめてつくった料理を食べないなんて………」とひどく腹をたて、まるで乱調子にオルガンをぶかぶか弾くので先生は益々困つてしまひ「夜なればよいが、昼はお百姓さん達がみんな外で働いている時ですし、そう言う事にしていますから止してください。」と言つて仲々やめなかつたのでした。(『イーハートヴォ創刊号』(宮澤賢治の會、昭和十四所収)
と「事件」のことを述べています。 昭和の初期にライスカレーを花巻で作るなんて、露さんは材料や調理法など、さぞ苦労したことと思います。私(昭和三一年生まれ)が初めてカレーライスを食べたのは幼稚園のころでした。当時は確かオリエンタルカレーの宣伝車が空き地にとまって、着飾った若い娘さんたちが、カレーをその場で作って、試食させ、その日は町内どの家からもカレーの臭いがしました。しかし、これはインド人もビックリ!即席カレールーの話で、デパートの食堂では昔ながらの欧風カレーがあったのですが、値段が高いし家で作ってもらえるから、他の注文をしていてカレーは食べた記憶がありません。紙数が尽きました。次号ではできれば再び樺太鉄道などについて考えます。

岩根橋発電所の遺構

樺太鉄道

前号では、カンパネルラが居なくなったあとに登場するブルカニロ博士の話からカレーライス事件、羅須地人協会の準会員にキリスト(カソリック)教徒の女性がいたことなどを考えました。カムパネルラが列車から消えた直後、彼のいた座席に現れたのが黒い帽子をかぶって、大きな一冊の本を持ったブルカニロ博士。実は初期形第三稿まで、ジョバンニの銀河を巡る旅はこの博士の催眠術による『心理実験』という設定でした。そして第四稿(最終形)ではすっかり「ブルカニロ博士」に関する描写がなくなり、ブルカニロ博士の存在は跡形もなく消滅しています。前号では、賢治は何故このような大胆な改稿を行ったのかについて述べました。

第四稿では多くのキリスト教徒が天上だと信じ列車を降りたあとジョバンニとカンパネルラだけが列車に残ります。そして、カンパネルラは南十字の近くの暗黒星雲あたりに列車がさしかかると「あそこが本当の天上だ」と言います。とジョバンニが見るとそこには暗闇と二本の腕木を繋いだ赤い電信柱しか見えません。
これは以前に述べました、花巻市にあった岩根橋発電所近くの岩手県花巻市にあった発電所高圧送電線用鉄柱、今思うと、最初から謎がとけなかった「天気輪の柱」かもしれません。そこはかつて「天気輪」の唯一の出典だった「五輪峠」の詩 『文語詩稿一百編』の「病技師(二)」にこの「天気輪」の語があります。五輪峠を訪れた時の歌です。

あえぎてくれば丘のひら地平を
のぞむ天気輪

五輪峠は江戸時代は南部藩と伊達藩の関所が置かれていたところで、江刺市・遠野市の境にある峠で、賢治の詩碑が建てられています。五輪峠の詩も再び引いてみましょう。
五輪峠と名付けしは/地輪水輪また火風/巌のむらと雪の松/峠五つの故ならず/ひかりうずまく黒の雲/ほそぼそめぐる風のみち/苔むす塔のかなたにて/大野青々みぞれしぬ
この詩に添えて、次のような賢治
のメモがあります。
あゝこゝは五輪の塔があるために五輪峠といふんだな。ぼくはまた、峠がみんなで五っつあって、地輪峠水輪峠空輪峠といふのだらうと、たったいままで思ってゐた。地図ももたずに来たからな。
さてジョバンニには赤い腕木を連ねた電信柱しか見えなかった漆黒の風景を「あそこが本当の天上だ」と言ったあと、カンパネルラは列車から姿を消します。この漆黒の空間は南十字星右下の暗黒星雲でしょう。実は「北十字」と呼ばれる白鳥座に付近にも暗黒星雲があります。
ここでは敢えてトンネルと考えてみましょう。そのトンネルは旅の始まりの最初の停車駅「白鳥のステーション」につながっているという路線だっったのではないかと以前に考えました。
夜空の鉄道にトンネルはありませんが、この暗黒星雲が南十字とジョバンニの住む町近くを結ぶトンネルなのかも知れません。
そして、銀河鉄道は規模や土地柄、「岩手軽便鉄道」というイメージが一般的です。岩手軽便鉄道は、後のJR東日本釜石線に相当すると考えがちですが、むしろ賢治の最大の理解者でかけがえのない妹トシと旅した樺太鉄道ではないでしょうか。
日本の最北からさらに延びる樺太鉄道は豊原(現在のスタロドゥプスコエ)に向かう「樺太鉄道」。スタロドゥプスコエはユジノサハリンスクから北に約五十キロのオホーツク海沿いの村。日本統治時代は栄浜と言われていた町です。栄浜の砂浜でトシの魂との交信を求め、期待して過ごす状況は「オホーツク挽歌」に描かれています。
前号ではタイタニックの遭難事故で亡くなって列車にやって来た三人のキリスト教徒について述べました。タイタニック号はイギリス・サウサンプトンからアメリカ合衆国・ニューヨーク行きの航海中の四日目に、氷山にぶつかって沈没します。当時世界最大の客船であったタイタニックは、事故発生から二時間四十分後の翌四月十五日の二時二十分に沈没し、一千五百十三人が亡くなりました。これは当時、海難事故の最大死者数であったので日本の新聞でも大きく報道されました。また数少ない生存者の証言から、タイタニック号が氷山に衝突して沈み始めた後、ウエストハートリーと彼のバンドは、乗客たちが落ち着いて救命艇に誘導されるようにと、ラグタイムの曲目を演奏していて多数の生存者の証言によると、彼らは最後の最後まで演奏を続けていたといいます。ハートリーもバンドのメンバーも生き残ることはできませんでしたが、彼らの名は後世に残ることとなりました。最期に彼らが演奏した曲は不明ですが讃美歌の三二十番、『主よ御許に近づかん』だったと一般に思われています。
こうした北の海の海難事故で命を失った三人が銀河鉄道に乗り込んで、南十字星の停車場で讃美歌に送られて「ここが本当の天上」だと、列車を降り光輝く南十字の十字架に皆向かって行きます。しかしカンパネルラもジョバンニも列車に残ります。これは法華経の常寂光土の教え「本統の天上はこの世で、自分たちの行いでこの世を浄土にする」という教えと重なります。ジョバンニとカンパネルラは、ここは「本統」の天上ではないと列車に残ります。  物語がキリスト教の描写に重なるという考察があります。銀河鉄道に乗り込んできた北の海の海難事故で命を失った三人は明らかにキリスト教徒です。それでは、賢治の周囲にキリスト教徒の友人がいたのでしょうか。これは前号でも述べましたが、羅須地人協会時代のことを研究しており複数の著作を出している花巻の羅須地人協会近くにお住まいの鈴木守氏は、以前から賢治も淡い思慕をよせていて、賢治の賢人化にともなって都合上「悪女」といわれた高瀬露さんの定説を崩し、高瀬露さんの名誉と本当の賢治像を考察している著作の中から平成三十年に発行された『本統の賢治と本当の露』に興味深い記述がありますので、引用させて戴きます。鈴木さんの著作は本当に興味深く複数ありますので、興味がある方は、〒〇二八-三六二一 岩手県紫波郡矢巾広美宮十-五一三-一九 (有)ツーワンライフ 電話〇一九-六八一-八一二一までお問い合わせ下さい。
この著書で鈴木さんは以下の森荘己池さんの「宮澤賢治の肖像」(津軽書房)で弟・清六さんの談話を記述を引いていますので、引用させて戴きます。
櫻の地人協會の會員といふ程ではではないが準會員といふ所位に内田康子さんとういふ、ただ一人の女性がありました。内田さんは、村の小学校の先生でしたが、その小学校へ賢治さんが講演に行ったのが縁となつて、だんだん出入りするやうになつたのです。来れば、どこの女性でもするやうに、その邊を掃除したり汚れ物を片付けたりしてくれるので、賢治さんも、これは便利と有難がって、「この頃は美しい會員が来て、いろいろ片付けてくれるのでとても助かるよ。」と集つてくる男の人達にいひました。白系ロシア人のパン屋が、花巻にきたことがあります。…(著者略)…兄の所へいっしょにゆきました。兄はそのとき、二階にいました。…(略)…二階には先客がひとりおりました。その先客は、T(高瀬)さんという婦人会の客でした。そこで四人で、レコードを聞きました。…(著者略)…レコード終わると、Tさんがオルガンをひいて、ロシア人はハミングで賛美歌をうたいました。メロディーとオルガンがよく合うその不思議な調べを兄と私は、じっと聞いていました。
(同書二三九頁)
そして、先ほど鈴木さんが、名誉回復して本統の賢治を知ってもらいたいという高瀬露さんもクリスチャンであったと述べられています。
このように、羅須地人協会にはクリスチャンの人々も出入りしていました。そして高瀬露さんにまつわる興味深い「ライスカレー事件」について前号で述べました。タイタニックから来た三人のうち、姉の「かおる子」はカンパネルラと仲良く話をしてジョバンニはなんだか寂しくなってきます。その時、ジョバンニは車窓から故郷の風景や見た覚えのある男の子を見ます。かおる子も「私も知っているは」とはじめてジョバンニと意気投合します。
さて前号では高瀬露さんと賢治の間に起きたいわゆる「ライスカレー事件」のことを述べました。昭和の初期にライスカレーを花巻で作るなんて、露さんは材料や調理法など、さぞ苦労したことと思います。私(昭和三一年生まれ)が初めてカレーライスを食べたのは幼稚園のころでした。当時は確かオリエンタルカレーの宣伝車が空き地にとまって、着飾った若い娘さんたちが、カレーをその場で作って、試食させ、その日は町内どの家からもカレーの香りがしました。しかし、これはインド人もビックリ!即席カレールーの話で、デパートの食堂では昔ながらの欧風カレーがあったのですが、値段が高いし家でも作ってもらえるから、注文しなかったようです。
上の図版はオリエンタルカレーの宣伝車が空き地に停車してコマーシャルソングを響かせながら、若い女性が実際にその場で、カレーを作って見せていた…と述べたら、私より年長の友人が、その場でタマネギや人参を一緒に売って、近くの肉屋がカレー用豚肉の割引券を配っていた、懐かしかったなーと教えてくれました。これでは宣伝車が来た日の夕方は、町内すべてカレーの香りでいっぱいになったわけです。
さてオリエンタル即席インドカレーの話に再び脱線しました。次号では、最終稿でブルカニロ博士の描写に代わって何故カンパネルラは友人を助けて溺死しなければならなかったかを考えてみたいとおもいます。

高瀬露さん

前号では、羅須地人教会で話題になったいわゆる「カレーライス事件」から昭和三〇年代の即席カレーライスルーの伝道車や筆者の思い出に脱線して、終わってしまいました。
要するに羅須地人協会の準会員にはキリスト(カソリック)教徒の女性がいたこと、賢治の羅須地人協会の活動に賛同した女性・特に熱心に掃除やまかないなどをしてくれていて、会員や来訪者の目にとまり、賢治が照れてごまかしたため、賢治研究者から「悪女」とされてきた高瀬露さんのこと、「カレーライス事件」とはこの高瀬露さんの好意によるもので、当時かなり苦労して作ったカレーライスを羅須地人協会に集まった仲間の前で賢治が照れくさく思って「私には食べる資格ががない」と食べなかったのに憤ってオルガンを激しく弾いて来訪者が驚いて伝聞したものに尾ひれがついて伝わったものだそうです。こうしたことは、高瀬露さんの名誉回復と事実を調べている鈴木守さんの著書から引用させて戴きました。
そしてカンパネルラが列車から降りて南十字星の近くに実在する暗黒星雲と考えられる闇に消えた直後、カンパネルラのいた座席に現れたのが黒い帽子をかぶって、大きな一冊の本を持ったブルカニロ博士。実は初期形第三稿まで、ジョバンニの銀河を巡る旅はこの博士の催眠術による『心理実験』という設定でした。そして第四稿(最終形)ではすっかり「ブルカニロ博士」に関する描写がなくなり、ブルカニロ博士の存在は跡形もなく消滅しています。前号では、賢治は何故このような大胆な改稿を行ったのでしょうか。
多くのキリスト教徒が南十字の駅の先に聳える輝く十字架に向かって行きます。多くの乗客はここが天上で列車を降りて列車に残ったのはジョバンニとカンパネルラだけでした。そして、実際に銀河鉄道の終着駅はこの南十字の駅でした。この列車は白鳥座の北十字から様々な星座を巡りその後は南十字の星座の下にある暗黒星雲(石炭袋)に入って北十字・白鳥座の近くに実在する暗黒星雲に出てジョバンニをもとの天気輪の柱が建つ丘の草むらに至ります。
『銀河鉄道の夜』の星座世界と題したこの連載も、そろそろ纏めに入らなければならないようですがあと二点ほど、解けていないことがありますので、今回と次号でこの連載を終えたいと考えています。

ブルカニロという名前

最終稿までのエンディングは〝博士の催眠術による『心理実験』という設定〟など大がかりな実験、日本の国全体が正しい教えを信じ、自分の立場で努力するよう、大きな社会運動を生んだのは田中智学は「あるべき日本」をめざし、身を挺して働きました。本多日生上人と共に明治・大正・昭和を駆け抜けた盟友でした。
二〇二一年はこの二人が協力して、皇室に日蓮聖人に「大師号」を請願して、皇室から「立正大師」の諡を賜った立正大師諡号宣下百周年という慶年です。智学はこの後、さらに活動を拡げ「あるべき日本」を目指しますが、本多上人は昭和六年に遷化され、日本は昭和七年を境に戦時体制に入って行きます。
夜空の鉄道にトンネルはありませんが、この暗黒星雲が南十字とジョバンニの住む町近くを結ぶトンネルなのかも知れません。

天気輪の柱

カンパネルラは南十字の近くの暗黒星雲あたりに列車がさしかかると「あそこが本当の天上だ」と言います。とジョバンニが見るとそこには暗闇と二本の腕木を繋いだ赤い電信柱しか見えません。そしてカンパネルラは二人だけが列車に残り暗闇が少し恐くなったジョバンニが「ぼくたちはずっと一緒だよね」と言って窓の外から振り向くとカンパネルラの姿は座席から消え、カンパネルラは列車の後部の扉を開けて「さよならジョバンニ」と言って暗闇の中に消えて行きます。ジョバンニは声を振り絞ってカンパネルラの名前を呼んで、そこで元の草むらの中で目を醒まします。
そして第三稿の記述までは、塔の背後から「ブルカニロ博士」が現れて、ジョバンニの星座巡りの旅と友人カンパネルラとの友情について感じ入ったことを述べます。すると、ジョバンニが車窓から見た〝二本の腕木を繋いだ赤い電信柱〟では小さすぎます。この大型の電柱の近くにはもっと大型の送電鉄柱があったと思われます。それが「天気輪の柱」だったと思われます。
この送電線は実際に花巻市にあった岩根橋発電所から来た発電所高圧送電線用鉄柱だったと考えます。最初から謎がとけなかった「天気輪の柱」はこの高圧送電線用鉄柱だったと考えます。第四稿(最終形)では友人カンパネルラが誤って川に落ちたザネリを助けるため川に飛び込みザネリを舟の方に押し、自分は溺死してしまいます。今号では何故カンパネルラは死ななければならなかったかについてを考えます。
カンパネルラがジョバンニに別れを告げ、列車から姿を消し歩いていく漆黒の空間は南十字星右下の暗黒星雲でしょう。実は「北十字」と呼ばれる白鳥座に付近にも暗黒星雲があります。ここでは敢えてトンネルと考えてみましょう。そのトンネルは旅の始まりの最初の停車駅「白鳥のステーション」につながっているつまり、カンパネルラとジョバンニが暮らす村こそが「ほんたうの天上」つまり、この娑婆世界こそ法華経の常寂光土、またそのようにすることこそが私たちが取り組むべきことだという日蓮聖人の教えそのもの。列車は南十字と北十字を結ぶトンネルとしての暗黒星雲はさらにすすみジョバンニをもとのくさむらに運んだのだと考えることが出来ます。
そして第四稿(最終形)ではすっかり無くなってしまった「ブルカニロ博士」は以前に、定方 晟東海大学名誉教授の『銀河鉄道の夜』の固有名詞の源泉─バルドラ、ブルカニロ」で「ブルカニロ」の語源の源泉は、ブッダ・世尊(bhagavat)にあるのではないか、また「仏教学」の英訳に関連した単語・英語表現のBuddhologyではないかということを紹介しました。
この連載もあと数回で終わりにしたいと思いますので、「ブルカニロ」の語源についてもこの連載の文脈で仮説を述べておきたいと思います。
夜空の鉄道にトンネルはありませんが、この暗黒星雲が南十字とジョバンニの住む町近くを結ぶトンネルなのかも知れません。
そして、最終稿でブルカニロ博士の描写に代わって、なぜ、ジョバンニや読者にとっても辛い物語の終わりとなる、カンパネルラが友人を助けて、実際に溺死する現場に立ち会うお話になったのか。列車での友人との別れと、友人が学友を助けるため川に飛び込み溺れて亡くなる。両者は考えて見ると、別れという意味では同じです。
実際、この物語では現実世界では死を迎えた者たちが乗客で、列車が通る星座には友を助けるため川に飛び込みいつまでもオレンジと青の灯りを夜空に放つサファイアとトパーズの星、白昼座のアルビレオやイタチに追われて井戸に落ち溺れていく蠍の嘆き、北の海で氷山にぶつかり沈没したタイタニック号から、大勢の人をかき分け連れの幼い兄弟を助けるより、このまま神に召されることを選択した家庭教師と二人の姉弟など、他を犠牲にして自分の命を守ることの虚しさを悟って水死していく逸話がたくさん出て来ました。他の為に自分の命を投げ出して、他の命を救う、こうした星座の物語がたくさんありました。そしてカンパネルラは、ジョバンニが列車で出会った時には、彼は川で友人を助けて溺れていたのです。そして二人で「ほんたうの幸い」を目指して行くことを誓います。
紙数が尽きました。さて次号では、思いかけず四〇回以上になっったこの連載を終えたいと思います。(完)

(以上『統一』200号/最新号に連載中/財団資料担当:西條義昌)